3月6日(2011年) 鬼門のスタジアム 退場の啓太は2か月の“出場停止”に
2011年3月6日(日)。浦和レッズは神戸のホームズスタジアム(現在ノエビアスタジアム)でヴィッセル神戸とJリーグ開幕戦を行った。
その前の2年間、フォルカー・フィンケ監督によってボールを保持して戦うサッカーがチーム導入され、両シーズンとも序盤から折り返し地点まではリーグ首位に立つ健闘を見せた。しかし、その後の連敗に加えて、同監督本人の性格や物言い、クラブ幹部の交代、あからさまな外圧、そして最終成績で上位に入れなかったことなど、さまざまな背景があって、フィンケ体制は終了。代わってゼリコ・ペトロヴィッチが監督に招聘された。
ゼリコ・ペトロヴィッチ。1997年の終盤レッズに移籍してきた(旧)ユーゴスラビア代表で、98年ワールドカップフランス大会にも出場し、2000年9月まで在籍。レッズでのポジションはボランチだが攻撃にも積極的に絡んだ。情熱的な性格で、常に手を抜かない熱いプレーがサポーターの共感を呼び、人気も抜群だった。元レッズの選手が監督になるのはギド・ブッフバルトに続いて2人目。レッズに対する愛情も間違いなかった。
就任会見で記憶に残ったのは「6位や8位になるためにきたわけではない」という成績に関する言葉。そして「結果が悪かったらサポーターが自分に対してネガティブな発言をするとは思わない。私がどれだけレッズに情熱を注いできたかサポーターが一番わかっているはず。どんなに結果が悪くてもサポーターは私の後ろについていてくれると信じている」という言葉だった。全体として自信にあふれていて、それは頼もしかったが、うまくいかないときにどうなるのか、少し心配だった。
一方、ペトロは友人でもあった。彼が2000年に日本を離れるとき、彼のレッズでのプレー写真をまとめてCDに焼いて成田空港まで見送りに行った。11年ぶりに再開したときは、僕を見て「Oh,my friend!」とハグしてきた。いつの時代もそうなのだが、この年は特に、この監督をできる限り支えたい、と僕が思った指揮官の一人だった。
監督の話が長くなった。
レッズはこのスタジアムでの成績は前年まで1勝1分け3敗と、分が良くなかった。神戸ユニバー記念競技場では6勝1敗なのに、この差はなんだろう。
新監督の初戦でもあるし、絶対に勝ちたいという気持ちは強かった。前半はレッズのシュート10本に対して神戸は5本と、レッズが優勢だった。
しかし後半17分、レッズの鈴木啓太が2回目の警告を受け退場になる。啓太にとってはアンラッキーで、数的不利な状況にいるところに味方からパスが来たため奪われまいとして無理なプレーをしたことが、警告に値するファウルになってしまった。前半12分にも1枚もらっていたのだ。
10人になったレッズは前半のように多くのチャンスを作れず、31分にFKを直接決められて0-1で敗れた。またここで負けた。
もったいない試合だった。11人で戦っていれば少なくとも負けることはなかったように思う。
だが正直、アウェイ開幕戦で負けることには慣れている(←おい!)。内容的には押していたから、今後の期待はできそうだった。キャプテンの啓太が次は出場停止だが、警告2回の退場による出場停止は1試合だけ。その後は神戸戦の分も頑張ってくれるはずだ。
だが、たしかに出場停止自体は1試合だったが、実際に啓太が試合に復帰したのは2か月後だった。
さて、みなさんは2011年3月6日、何をして何を感じていましたか?
追伸 開幕5試合目にしてリーグ戦初勝利を挙げた2022年も、後に「あそこから始まった」と言えるようにしたい。
※【あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~】は、レッズサポーターのみなさんから投稿を募っています。浦和レッズ30年の歴史をいっしょに残していきましょう。詳しくはマガジン「あの日のわたしたち~浦和レッズ30年~」のトップページをご覧ください。
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