ところで、愛ってなんですか? [第8回]
起きている時も、夢を見ているのかもしれない。ドラッグストアの光や交差点のクラクションにかき消されているだけで。
いつもは見えなくなっている昼間の夢。それが、あるきっかけで現実よりもはっきりと浮かび上がることがある。鍵を鍵穴に差しながら、郵便物をより分けながら、目の前のできごとが遠のいてゆき、別の世界が映し出される。
好きな人、ただその人のことを思ってしまうのだ。
思ってしまうんだから仕方がない。暑ければ汗をかくとか、走れば心臓が速く拍動するとか、そういうのと同じ。自分では止めようがない。
目の前にいる今日のお客さんもそんな様子だ。男は出された水に手をつけず、ときどき思い出したように深く息を吐く。意識して鍛えたのではなく自然と身についたような二の腕の筋肉が、白いシャツを外側へ押し広げていた。男が差し出した名刺には〈第二営業課 課長〉とある。部下の女性からも男性からも憧れられるんだろうな。そう思わせる目尻の皺だ。
「実は、」と言って顔を上げて一瞬私を見たかと思ったら、目を逸らして、窓の外を見る。それでいて、窓の外にも視点は合っていなくて、もっとずっと向こうを見ているようだった。
「私はあなたの知らない人だから、なんでも言ってくれていいんですよ。照れちゃうことでも、なんでも」
「すみません、ぼうっとしてしまって。つまり、好きな人ができてしまって」「いいじゃないですか。びっくりしますよね、大人になってする恋は」
「片想いなんです。自分にもこんな心が残ってたなんて、ちょっと不思議で。ほとんど一目惚れっていうか。もちろん見た目だけじゃないですよ。気取ってなくて、ちょっと愚痴っぽいところが素直でぐっとくるっていうか」
片想い。
その時間が恋愛のなかでいちばん楽しいものかもしれない。相手のことで知っている部分はまだ僅かだ。だから、その未知を埋めるために、たくさんの夢を見てしまう。どんな暮らしをしているんだろう。デートに行ったらどんなふうにはしゃぐんだろう。夢に重力はないし、時間制限もない。いつまで浸っていてもいい湯船のように心地いい。
いちばん未知なのは、相手の気持ち。自分のことをちょっとはいいと思っているんだろうか。何とも思っていないんだろうか、それとも。わからないから、怯えてしまう。
君の使っている携帯電話(あるいはスマートフォンでも、カメラでもいい)が同じ機種だ。それだけで嬉しくて心が動いてしまう。あ、それ。思わず口からこぼれそうになるその一瞬前に、自分で自分にブレーキをかけてしまう。
同じ機種?そんなどうでもいいことを言うなんて。気まずい空気になるかも。怖がられるかも。
そうやって心に閉じ込められる言葉があったこと。君は、この逡巡を知ることはない。
こんな気持ちの非対称性にこそ、片想いの心は宿っている。
「出身が同じ、好きな映画が同じ。知るたびに飛び跳ねるほど嬉しくて」「もう、その人になっちゃいたいくらいですね」
「それなのに全然遠いんですよ、その人が。手も心も届かない」
好きの矢印が一方にしか向いていない片想い。それは夢を見る自由を与えてくれるけれど、反面、枕に顔を埋めて叫んでしまいたいほどの切なさの源でもある。
片想いの数だけ、届かない哀しみはあるだろう。
一方的に見つめるだけで、気持ちを伝えられない切なさ。
伝えても振り向いてもらえない寂しさ。
振り向いたように見せてくれるけれど、ほんとうはこれっぽっちも自分のことを好きではないとわかってしまう苦しさ。
この星の上に、届かない矢印は人間の数より多く散らばっている。
君の涙に、僕は関わることができない。こんなに近くに居るのに、君の心に僕は存在していないみたいだ。こんなにも君の心を動かしているのは一体何だ。一体誰だ? それがたとえ、君を哀しませるものであっても、僕はそれを羨ましく思ってしまう。
僕のために泣いてよ。
そう叫んでしまいたい。
いま僕は黙って君のにおいを感じることができるだけ。空気を通して、間接的に君を知ることができるだけ。それならこんなにいい匂いをさせないでよ。もっと好きになってしまうじゃないか。
片想いの哀しみは、もうひとつ。
好きな人に好きになってもらえない。けれど、好きではない人から好かれてしまう。終わることのない片想いの輪廻という、途方もない神様の意地悪。
「あなたに向いている矢印も、あったりしたんじゃないですか」
「え?」男は、今度ははっきりと私の目を見た。
「ああ、そういうこともありましたね」
自分が恋をしていない相手になら、いくらでもやさしくできる。甘栗を持っていくだけじゃ足りない。あたためて、もっと甘くして、もっと香りいっぱいにして持っていく。そんな思わせぶりな態度さえ。
このやさしさが真にあなたのためのものではないことは、自分がいちばんよくわかる。これまで何度も繰り返してきた、デジャ・ヴュのような優しさだ。
だけどこの優しさのナイフを振りかざすことを止めることができない。
叶わない片想いの代償だから。人間はこんなにも寂しいから。
***
「片想いって、夢のようにきらきらしていて、刃物のようにきらきらしていて、だから取り憑かれてしまうんでしょうか」
「ええ。相手の心をこの手で触ることができない、そういう意味では、もしかしたら両想いも、」
「両想いも、両方の片想いってことですか?」
「それを私もずっと考えてるんです。でもそうだとしたら、この店を畳まなきゃいけない」
「僕だって困ります、夢のままでは困るんです」
雪見だいふくはふたつでひとつ。もちもちした感触も、唇を粉だらけにして食べるあの感じも、あまりに親密すぎる。
「ふたりで感」は、今の二人にはまだ早い。いや、永遠に追いつけないのかもしれない。6つのピノが袋の中で揺れている。両想いだなんて、思い上がったこと言えないけど、でも、ふたりで3個と3個に分け合うことならできる。
可能性。
そこに、愛の可能性があるようだ。
***
〈BAR愛について〉の閉店時間は決まっていない。
そのおかげでいつまでだって話せる場所になった。どちらかが眠ってしまうまで話し続ける、そんな夜がいくつかあったように、訪れるひとにとって、ここがそんな場所であったらいいと思う。
看板の電源コードを抜くとき、これは終わりではなくて、始まりなのかもしれないと唐突に思った。長い夜。夢はこれから見るのだ。