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【試し読み】毬矢まりえ・森山恵姉妹訳「源氏物語 A・ウェイリー版」より「夕顔」帖1

2024年9月、NHK「100分de名著」にウェイリー版源氏物語が取り上げられました!
放送を記念して、毬矢まりえ・森山恵姉妹訳「源氏物語 A・ウェイリー版」第1巻より、「夕顔」帖から一部を紹介します。

【書籍概要】
竹宮惠子先生も推薦。源氏物語はこんなにおもしろかった!
胸を焦がす恋の喜び、愛ゆえの嫉妬、策謀渦巻く結婚、運命の無常。
1000年のときを超えて通用する生き生きとした人物描写と、巧みなストーリーテリング。
アーサー・ウェイリーの工夫をこらした名訳を現代日本語に「らせん訳」。源氏物語のエッセンスをダイレクトに伝える、こころを揺さぶられる決定版!
源氏物語こんなにも笑えて泣けて、感動する物語だった!

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「Yugao ユウガオ」
17歳の夏、コレミツの乳母の家にお見舞いに訪れたおり、歌を交わした隣家の女性。その素性を明かさないものの育ちと人柄のにじみ出る歌を寄せてきたユウガオに惹かれ、ゲンジは逢瀬にのめり込んでゆく。だがある夜のこと、眠りに落ちたゲンジはふと背の高い厳しい女に見下されているのに気がつく。その物の怪は隣に寝ているユウガオをむりやり引きずり出そうと襲いかかり──。
ユウガオとの出会いと別れ、伊予へ下ってゆくウツセミ。ゲンジの恋の終わりを描く「ユウガオ帖」のウェイリー版から、ユウガオとの出会いの場面。

ゲンジが、秘かに六区(ロクジヨウ)の女性[註1]のもとへ通っていたころのことでございます。
パレスからの帰り道のある日、昔の乳母(めのと)を見舞おうと思いつきました。この乳母はいまでは尼僧となり、もう長いこと重い病気に伏せっていたのです。住まいのある五区を尋ね回り、ようやく家を探し当てました。ところがフロントゲートには鍵がおりていて、馬車を乗り入れられません。
ゲンジは召使いを遣わして乳母の息子、惟光(コレミツ)を呼ばせると、通りで待つあいだ、みすぼらしい裏町を仔細に眺めていました。隣家に目をやります。そこは新しい柵が巡らされ、窓のひと所、四、五枚の格子が上がって白い簡素なブラインドが下がっています。隙間から女性の額がちらちら見えました。下の通りを興味津々、見おろしているのは侍女たちのようです。ゲンジは初め、彼女たちがただ窓際を歩き過ぎながら、外を見ているのかと思いました。でもそうではないと思い至りました。なぜなら、もしそうならおそるべき大女です。そうです、わざわざテーブルかベッドに乗って、窓の外を覗いていたのです。なんとまあおかしなこともあるもの。
ゲンジはその日、馬に乗る前駆(ぜんく)もなく、目立たぬ馬車で来ていました。ですから、まさか誰も自分に気づくまいと安心して身を乗り出し、その家をとくと眺めていたのです。半開きの格子戸から家の中を窺(うかが)うと、実に慎ましい住まい、家具調度も見るからに簡素そのもの。束の間、このようなところに住む人たちを哀れに思い、ふとある歌を思い出しました。

住み処(ホーム)を見出すのに広大な世界を求めるなかれ
思い掛けず身を休める所があれば そこを我が家と呼べ[訳注1]

それから、こんな歌も。

君主は翡翠(ひすい)の王宮を構えるがよい
草ぶきのコテッジに二人は憩(いこ)えるもの[訳注2]

小枝を編んだフェンスを蔦のような蔓草(つるくさ)が覆い、涼しげな緑の葉を広げています。葉のあいだからは、まるで笑みこぼれる唇のように、白い花びらが綻(ほころ)んでいます。
「ユウガオ、夕暮れの顔(イヴニング・フェイス)という名の花です。うら寂しい塀にこんな愛らしい花が群れ咲くとは、なんともゆかしいことです」従者の一人がゲンジに言いました。
みすぼらしい一画のわび住まい。そのぐらついた軒や切妻に蔓草が這いのぼり、伸びゆく場所があればと広がってゆく。そのさまはあまり見ぬ、悦ばしい光景でした。ゲンジは召使いを一人、花を摘みに遣ります。
召使いが半開きの扉から入って摘みはじめたとき、小綺麗な引き戸から、黄色のチュニック姿の少女が現われました。香を深く焚きしめた白い扇を差し出すと、
「なにか花を載せるものがご入り用ではございませんか。でもまたずいぶんと哀れな花を選ばれましたこと」そう言って、従者に扇を手渡したのです。
従者が乳母の家の門を開き、馬車に戻ろうとしたちょうどそのときでした。ゲンジさまをこんなにもお待たせしてしまって、と詫びの言葉を尽くしながら、乳母の息子コレミツが出てきました。
「門の鍵が見つからなかったもので。幸いこのつましい一画では、だれもゲンジさまに気づいてとり囲んだり、じろじろ見たりはしないでしょう。とは申しましても、こんな侘しい裏通り。お待ちのあいだ、さぞご退屈で……」
など言いつつ、ゲンジを中に案内しました。コレミツの兄の助祭(アジヤリ)や[訳注3]、義理の弟・三河の守(ミカワノカミ)、妹らなどが揃ってプリンス・ゲンジを迎えます。再びこのようなご訪問の栄誉にあずかるとは、思ってもみない歓びでした。尼僧もカウチから起き上がります。
「この俗世を捨てる日を、ずっと待っておりました。でもどうしても心残りがひとつ。それは、あと一度でいいから、あなたの馴れ親しんだ乳母の姿のまま、あなたと会いたい、その一心だったのですよ。けれどもいらして頂けませんでした。だからもう、わたしは誓願を済ませました。戒律に従って悔い改めたおかげでしょう。少しは元気を取り戻し、今日こうして、愛しい若さまに再びお目に掛かることができました。もう何も思い残すことはありません。ああ、これで安らかな心でアミダ(阿弥陀)さまの御光を待つことができます」と弱々しく涙をこぼすのでした。ゲンジは言いました。
「ほんの数日前、お加減がだいぶ悪いと聞いて、とても心配していたのです。あなたの尼姿はひどく悲しいこと。もっと長生きして、わたしがこの世で成功するのを見届けてくれたら、きっとアミダのパラダイス(九品浄土)に生まれ変われますよ。悲願を果せぬまま生涯を終えると「来世で邪悪なカルマに苦しむ」というではありませんか」
年老いた乳母というものは、自分が育てた子どもであれば、どんなに器量が悪く不道徳でも、この子は稀にみる美貌と徳を備えている、と思うもの。ですから、幼いゲンジが誰よりなついていたこの乳母が、自分の勤めをとてつもない名誉と感じ、こうして語り掛けるゲンジの言葉に、誇らしさから涙をこぼすのも無理からぬことでしょう。子どもたちのほうは、出家の誓願を立てた老婆が、俗世の出世にこれほど関心を示すとは、なんとはしたない。さぞやプリンスは見苦しく思うに違いない、と恥ずかしく、気まずく視線を交わしていました。ところがゲンジは感動していたのです。
「幼いころに、わたしは好きだった人を次々と喪いました。その後も、多くの人が助け育ててくれましたが、心からなついたのはあなただけ。でも成人してからは、滅多に会うこともできませんでしたね。ここに来る自由もなかったのです。最後に訪ねて来てからもずっとあなたが懐かしくて、いつも思っていましたよ。人の世にこんなにも辛い別れがあるのか、とね」
こう優しく語りかけます。ゲンジが涙を拭うと、袖の高貴な香りが狭苦しい部屋いっぱいに広がります。こんなに立派なプリンスを育てたのよ、という老母の隠しもしないご自慢が少々気に障(さわ)っていた子どもたちさえ、いまは思わず涙するのでした。
病に臥せる彼女のため、たゆまず祈りを捧げるよう手はずを整えると、ゲンジはコレミツに蠟燭(ろうそく)を灯(とも)すよう命じて、家を出ました。ふと、白い花を載せてある扇に目が留まります。歌がさり気なく、優美に書き付けられているのにゲンジは気がつきました。
「あなたを惑わせたのは、つまらぬユウガオの花。耀く露玉のドレスを纏(まと)い、謎めいて見えたのでしょう」

心あてにそれか とぞ 見る。白露の光添へたる夕顔の花

書き手の身分や素姓が知れないように、わざとなおざりに書いてあります。しかしその筆跡には、育ちの良さと優れた人柄が自ずと表われており、ゲンジはおや、と思いました。
「あの左隣の邸(やしき)には、どなたがお住まいかな」
とゲンジは尋ねます。コレミツはこのようなことに巻き込まれたくありません。自分は母のところに来てまだ五、六日で、しかも看病に追われ、隣を気にする余裕はありませんでした、と答えます。
「いや、なにもその気があって聞いているのではない。この扇を見て、大切なことを思い出してね。どうしても知りたくなって。この辺りに詳しい誰かに聞いてきてくれないかね」
コレミツがその足で隣家の家令(スチュワート)を呼んで尋ねると、男はこう答えました。
「この邸は、とある地方次官のものでございます。次官自身は任地におりますが、奥さまはここに残っているのです。まだ若くて賑やかなこともお好きなので、宮中に仕えている兄たちがよくここを訪ねて参ります」
戻って来たコレミツは、この家令の言葉をそのままゲンジに伝えました。
「彼から聞き出せたのはこれくらいでした」
それではあの扇の歌は、その宮廷人の兄の誰かが書いたのだろう、ゲンジは考えました。そうだ、確かにあの書きぶりにはどこか自信ありげな様子があった。おのれの地位に自惚れている者が書いたに違いない。けれどもゲンジという人は、ロマンティックに傾きがちな人でした。ひょっとすると、あの歌は隣家の女性から自分に宛てたものかもしれない。そんな思いを捨てるに忍びなく、折り畳んだ用箋にこう認(したた)めました。
「近くでよく見ることができたなら、なんの花かすぐにわかったでしょう──。深まる暮色に、朧(おぼろ)気(げ)にしか見えなかったのです」

寄りてこそ それか とも 見め。たそかれにほの〴〵見つる花の夕顔

(つづく)


[原注]
1 レディ・ロクジョウ(六条御息所)。物語の展開につれ、彼女の素姓が徐々に明らかになっていく。
[訳注]
1 「世の中はいづれか指してわがならむ行きとまるをぞ宿とさだむる」(古今集・読人しらず)。
2 「何せむに玉の台も八重むぐら這へらむ宿に二人こそ寝め」(古今集・六帖六)


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