【ウクライナ戦争日記】たったひとりで戦禍のマリウポリへ乗り込んだ女性の日記
執筆者のプロフィール
イリーナ・ラサディナさんの日記
最初の10日間
朝5時、窓の外とアパートの中からよくわからない音が聞こえて目覚めた。
道路では、パニックになった人たちが車に向かって物を投げつけ、子どもたちの腕をつかんですぐにどこかへ行ってしまった。19歳の息子デニスとその友人のミキタ(彼は一時的に私たちと一緒に住んでいた)は怯えた顔でうずくまり、壁に体を押しつけている。爆発音が聞こえ、家が揺れるのを感じた。
そのあとの10日間は、まるで長い悪夢を見ているかのようだった。
マシンガン、シューシューと鳴る爆弾、胸をえぐられるようなロケットの衝撃的な音、そして米を手に入れるために何時間も並ぶ長蛇の列(それも手に入るのは運がいいときだけ)。どの店にも品物はほとんどなく、野菜や穀物がわずかにあるだけでも大きな喜びを感じる。ひとたび街中でこのような行列に並び始めれば、途端に飛行機の飛ぶ音や爆発音が聞こえてくる。ある女性は恐怖のあまり失禁し、私は必死に家へ走ったせいで大事なキャッシュカードを失くしてしまった。すでに残りわずかの資金を調達する唯一の方法だったのに。
10日間、アパートの地下室で何人かの近所の人と一緒に過ごした。24人ほどいて、そのほとんどが母子だった。私は自分の子どもたちと一緒に、この冷たくてじめじめした地下室に隠れ、特に大きな音が聞こえたときは、飼っているドーベルマンを抱きしめていた。
地上に出たときにフェイスブックのニュースを読み、ロシアがさらに多くの街や都市を奪っている事実を知った。マリウポリのように、すでに包囲されている都市もあるとのことだった。ハルキウはまだ戦い続けていて、占領しようとする者たちを撃退している。
私は10日間ずっと、瓦礫の中から人を助けたり、砲撃を受けているところに食べ物を運んだり、子どもを避難させたりすることに命をかけているボランティアの人たちに想いを馳せていた。
本当は私も一緒に人々を助けたかったが、まるで心の内側がいくつもの破片に打ち砕かれたかのように何もできずにいた。
7日目に地下室の灯りが消え、それに応じて暖房もつかなくなった。2月の凍えるような寒さで、瞬く間に家が霜に覆われた。食料は底をつき、料理をする機会もなく、私は子どもたちと街を出ることに決めた。私たち3人と犬1匹が、命と同じくらい大事なものを詰め込んだバッグを持って、砲撃が激しくないときを見計らい、より奥地にある200キロも離れた隣町へ車なしで向かったのは、また別の壮大な物語だ。
それから2日が経ち、友人の家で比較的静かにしている時にふと、最初の数日に何もしなかったことを思い出し、良心が痛んだ。完全に心が参っている。
そのとき、友人から連絡があった。3週間ほど音信不通だった彼の妻ユリアから手紙が来たという。彼女は無事で、マリウポリにある彼女の父の家にいることがわかったそうだ。そして友人から、私にそこへ行って妻を訪ねてほしいと頼まれた。車も用意するし、ガソリンを探すのも手伝うから、と。
この頼みを聞いた私は、即座にこのミッションの難度の高さを理解した。戦争の最前線を二度も通り、絶え間ない砲撃によって壊された街に入り、ユリアとその父を見つけて戻ってこなければならない。しかも誰ともコミュニケーションは取れず、案内も助けもない。たったひとりで地獄の真ん中に向かうようなものだ。
私は、自分のモータースポーツで培った経験(アマチュアリーグでタイトルやメダルをたくさん取ってきた)が、今回の旅で役立つかもしれないと思った。友人は、約束通り小回りの利く車を用意してくれた。これで、少量のガソリンとやる気が備わった。この旅の本当の目的は、ユリアを助けに行くことではない。自分自身を取り戻すため、自分を助けるための旅だ。
ここならロシア人の検問でも見つからず、奪われることはないだろう。そう思って、大量に用意しておいた、子ども服と女性服が入った未開封袋の下にガソリンを隠した。案の定、ロシア人は車内への興味をすぐに失った。どうでもいい子どもの服しかないと思ったのだろう。
マリウポリへ向かう道
最前線をほかのボランティアの車とともに通過した。もし私ひとりだったら、もっとすばやく慎重に動けただろう。なぜなら、1キロごとにある検問所で、この20台以上もの車の集団は相当目立っていたからだ。ロシア兵は私たちの車を調べ上げ、男性は全員下着を脱ぐようにと銃を突きつけて強制してくる。それからウクライナのシンボルのタトゥーを探し、携帯に保存された写真をチェックし、建物が破壊されていることがわかる写真はすべて削除した。
ある男性は「検問所で弟が、家族と子どもの前で撃たれたんだ」と言っていた。弟の携帯に、Zのマークがついた軍事施設の写真が保存してあるのが見つかってしまったからだと言う。
かくいう私も、とある場所で戦車がたくさん置いてある基地(少なくとも100台はあった)へ、ロシア兵の集団が戻って行くところを見かけて、軍にいる知人に位置情報を送ったことがある。
17時以降は外出禁止のため、マリウポリの近くの都市、ベルジャンシクにて一夜を過ごさなければならなかった。見知らぬ家族が快く匿ってくれた。その家族の女性は妊娠していて、「姉が夫と子ども2人と一緒にマリウポリにいるの」と教えてくれた。
あとになってわかったことだが、私が最前線を通過したまさにこの日、ロシアはマリウポリの劇場に爆弾を落とした。その劇場には数千人の人々が隠れていて、周りには「CHILDREN」と大きく書かれていた。あの日あの場所で700人以上が死んだそうだ。
この女性からも「家族をマリウポリから連れ出してほしい」と頼まれた。さらに、必要な物資を集めて私の車に詰め込むのを手伝ってくれた人たちとボランティアの人たちからも追加で2枚、マリウポリの住所が記載された紙を渡された。彼らはみんな、愛する人を助けてほしいと私に懇願した。
さて、友人が用意した車は小さいけれど4つ座席があり、とても機敏なクロスオーバーだった。どうすればこの車で大勢の人を連れ出せるだろう。私はあとで考えることにした。
早朝、外出禁止の時間が終わる頃にはすでに荷物を詰め終え、地獄・マリウポリの中心地へ向かう準備が整った。目的地は、アゾフ連隊[アゾフ海沿岸のマリウポリを拠点とするウクライナの準軍事組織]の軍と何万人もの市民がまだ取り残されている場所だ。
検問所にて
私の運転する車は、ときどき出現する燃え尽きた穴ぼこだらけの車にぶつかりながらも、荒れた道を颯爽と走り抜ける。やがて、マングーシュ村[のちに集団墓地がつくられたマリウポリの村]にある、侵略者たちの巨大な軍事拠点に辿り着いた。そこは、以前警察署だった敷地につくられた、でかでかとしたロシアの検問所だった。
マシンガンを持った男が私を引きとめ、書類と車両証明書を取り上げると、「車を置いて行くなら見逃してやる」と言い放った。私は怯むことなく、直属の上司と話をさせてほしいと頼んだ。
上司は近くにいた。典型的なソ連時代の元警察官で、こちらを軽蔑し見下した様子で、話し方も厚かましい。まるで武器を持った悪者の手下のようだ。
私が質問すると、彼は先ほど私から取り上げた書類を手に、この瞬間を存分に楽しんでいる様子で私に唾を吐きかけ、「パーブロブナ(とても親密に、しかし私という存在の無意味さを強調するかのように、名前ではなくあえてミドルネームでそう呼んだ)、わかっていないのはお前のほうだ。私がお前の車を使うから、さっさと出ていくがいい!」と吐き捨てた。
私はもう失うものは何もないと思い、「別の上司を呼んでください」と言った。
幸いなことに、またもすぐ近くに上司がいた。私は、小さな子どもと一緒にいる姉を迎えに行こうとしているのだと説明した(誰の姉かは言わなかった)。それから彼ら3人に向かって、「帰るときにあなたたちにこの車を受け渡すことには、なんのためらいもありません。どうせほかに帰り道などないのだし」と言い放った。
こう言い放てるのは、帰ってくることなどまずないと思っているからだ。
とにかく大事なのは、私は今、もう少しで爆弾の中にいる人たちを助けられるということ。そして、彼らはこのままだと長くは生きられないだろうということだ……。私の頬に涙が伝った。
すると、その涙には魔法のような効き目があった。なんと、この最後の上司は寛大にも、車で砲撃された都市を進むことを許したのだった。
爆撃や市街戦に関する状況をスマホで確認しながら、前もってここから先の道順の計画を立てた。今後戦略的に使える港を守るために、おそらくロシア兵が砲撃しないであろう海に沿って、街に侵入することが一番安全だろうと判断した。街に入ると、ユリアとその父親がいる場所から、絶え間ないミサイルの連続砲撃が聞こえてきた。彼女は、先日砲撃を受けた劇場から通りひとつ離れたところに住んでいた。
ユリアとの出会い
それから、右ハンドルのどこか寂しげな日本車に、子どもが2人乗っているのが見えた。目をキョロキョロさせて逃げ道を探しながら、車を運転している。オンラインのマップにはまだ最新の道路状況が反映されていなかったので、私は彼らに道を教え、通りを走って曲がり角や交差点を数えてあげた。
辺りには目印になる建物はもはやなく、ところどころアスファルトすら見えないほどの瓦礫があるだけだ。それも、砲撃によって破壊され、窓の部分に黒い穴がぽっかりと空いている建物や、黒焦げになった骨組みばかりである。
突然、連続砲撃が静まった。完全に静まりかえった街の中を動く。
年配の女性を何人か見かけたので、道を聞くことにした。だが、残存する建物のそばに立ち尽くしている彼女たちの雰囲気に違和感を感じた。こちらを見ようともせず、声を聞こうともせず、ただただ見て見ぬふりをしているのだ。
ハンドルを握る手と全身が激しく揺れ、車が左右に揺れ動いた。目の前に門が見え、私はやっと目的地に着いたのだと気づいた。家は残っている。庭の中に入ってユリアの名前を叫ぶと、すぐに反応があった。彼女がこちらを見た瞬間、表情が少しだけ曇ったのを私は見逃さなかった。
「本物? それとも敵?」と彼女が尋ねた次の瞬間、またしても爆弾が降り始めた。私たちは地面に転がり、家まで這っていく。
家に入ると、彼女は父親を呼び、すでに荷物を詰め終え机の下に隠してあったバッグを引っ張り出した。部屋に現れた父親のジョージは、私たちと一緒にここから出ていくのを拒んだ。自分の家と心中するのだ、と言い張って聞かないのだ。
私はどうにか、一緒に来てほしいと頼んだ。ユリアの夫が私に託した気持ちを知ってもらうため、彼とのやりとりや彼と娘たちからの音声メッセージを聞かせた。
説得はうまく行った……ただしユリアにだけだったが。彼女は父親に別れを告げ、私たちは家をあとにした。(続く)
※この日記の続きは、書籍『ウクライナ戦争日記』よりご覧ください。
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