見出し画像

文豪と〆切 ⑤夢野久作「その責任は当然、私のペンに在るに達いありません。」

夏目漱石から松本清張、村上春樹、そして西加奈子まで90人の書き手による悶絶と歓喜の〆切話(エッセイ、日記、手紙など)94篇を収録したアンソロジー『〆切本』、続く『〆切本2』から、文豪の作品を13篇、お届けします。
師走の忙しさを一時忘れさせる、泣けて笑えてためになる(?)〆切エンターテイメントをお楽しみください。


「スランプ」 夢野久作 

 ―ぷろふいる社御中―

 申訳ありません。このあいだ御下命の原稿、一度、御猶予願って置きながら、まだ書けずにおります。ひどいスランプに陥ってしまったのです。
 いささか広告に類しますが、私はスランプに陥った経験がまだ一度もないのです。
 九州日報社で編集と外交の中ブラリンをつとめております時分に、新聞専門家の間に名編集長として聞こえていた、同時に自由詩社の元老として有名な加藤介春氏から、神経が千切れる程いじめ上げられた御蔭で、仕事に対する好き嫌いを全然言わない修業をさせられました。死ぬほどイヤな提灯記事、御機嫌取り記事、尻拭い原稿なぞ言うものを、電話や靴の音がガンガンガタガタと入り乱れるバラックの二階で、一気に伸び伸びと書き飛ばし得る神経になり切っていたのです。自分の筆を冒涜し、蹂躙する事に、一種の変態的な興味と誇りをさえ感じていたものでした。
 そのうちにその九州日報を首になりましたので、私は書きたい材料をウンウン言うほどペン軸に内攻させたまま山の中に引込んで、そんな材料をポツポツペン軸から絞り出して行くうちに、山の中特有の孤独な、静寂な環境のせいでしょうか、次第次第にペン先が我ままを言うようになりました。
 四つも五つも電話が嗚りはためいている中でも平気で辷っていたペンが、蠅の羽音を聞いても停電するようになりました。ペンが動き止まないうちは、一歩も机を離れなくなって、三度の食事は勿論、便所に立つ事も出来なくなりました。ことに一時間五枚という自慢のスピードがグングン落ちて来て、一日平均二枚乃至五枚という程度まで低下して来たのにはホトホト閉口したものでした。
 しかし、それでも有難いことに、とにもかくにもペンの方で動いてくれましたので、私もそのペン軸に取り縋り取り縋り、今日まで月日を押し送って来ましたが、最近……と言っても昨年末から、そのペンが一寸も動かなくなったのです。

 何故だかその理由はわからないのです。
 昨年の十二月の初めの事です。私は道楽半分に書いておりました千枚ばかりの長篇を或る処へ送り付けましたあと、アタマが暫く馬鹿みたいになっておりました。ところへ十二月初旬までという約束で送り付けておりました或る連載物が、某誌から念入りな注文付きの書き直しを要求して、返送して来ましたので、既に予告も出ている事ですから、一所懸命になって書き直しにかかりましたが、どうしても注文通りに行きません。某誌の注文通りにしますと筋がどうしても気持よく運びませんので、やっぱり我流かも知れませんがモトの構成に立ち帰って来るのです。そこで大いに慌てまして、ほかに数篇の未成稿が在るのにペンを突込んでみましたが、どれもこれも竹箒でドブドロを掻きまわすようにペン先が重たくなって、引っこみの付かない悪臭がプンプンと鼻を打って来るのです。

 この行き詰まりを打開する手段と言ったら普通の場合、まず酒でも飲むことでしょう。又は女を相手に、あばれまわる事でしょう。そうして捩れ固まった神経をバラバラにほぐしてしまいますと、一切の行き詰まりが同時に打開されて、どんな原稿でもサラサラと書けるようになるに違いない事を、私はよく存じているのです。
 ところが遺憾なことに、こうした局面打開策は、そうした元気旺盛な、精力の強い人にして初めて出来る事で、何回となく死に損ねた、見かけ倒しの私には全然不向きな更生法なのです。
 ですから私は昨年の十二月から私一流の局面打開策をこころみ始めました。これは今までにも仕事に疲れた時なんかによくやって来た事ですが、中学に行っている長男や、私の家に遊びに来ている農村の青年なぞを引っぱって近郷近在の野山を盲目滅法に歩きまわるのでした。ヘ卜ヘ卜に疲れて、上り框からやっと這い上るくらい猛烈な試練と、夢一つ見ない睡眠を取った翌日、今一度、午睡をしてから眼を醒しますと、例によって例の如く、今までとは打って変った軽快さで、スラスラと原稿が書けるものと思い込んで、机に向ったものでしたが豈計らんや、一行も書けないのです。おまけにその書きかけの文章が不愉快で不愉快で、筆を入れる勇気も何もないくらい詰まらないものに見えて来るのです。自分はコンナものを発表する気で書き始めたものか知らんと思うと、我ながら愛想が尽きてしまうのです。

 そこで又、着のみ着のまま家を飛び出して、地図も何も持たないまま、盲目滅法に野山を歩きまわる。言葉訛の違った山向うの村で、道傍の知らない小児と遊んだり、祭神のわからない神社の絵馬を眺めまわしたり、溜池に石を投げ込んだりして、それこそ心の底からルンペン気分になって行くうちに、案内もわからぬ野山の涯で日を暮らして、驚いて帰って来る。すると又、不思議な事が起りました。
 文章は一行も書けないのに俳句と川柳と短歌の出来ること出来ること。むろん碌なものは出来ません。短歌は大本教の王仁三郎程度、俳句も川柳も月並以下の笊で掬える程度のシロモノばかりですが、それでもその出て来るスピードには我ながら驚きました。俳句、川柳が一時間に二十か三十、短歌でも十四、五ぐらいはペラペラと出て来ますので、ノートが忽ち一パイになってしまいます。あとで読み返してみても感心するものが一つもないので、とうとう癇癪を起して、そのノートを道傍の糞溜の中に投げ込んでしまいましたが、今から考えても些しも惜しいとは思いません。今でも十七、八字か三十一、二字並んでいるだけなら一時間に二十や三十は平気ですからね。西鶴の二万句も、こんな時に思い立ったんじゃないかと思うのは、すこし僣上でしょうか。
 いずれにしても昨年の暮以来、私の頭が否、ペンが変調子を呈していることは、もはや疑う余地がありません。書きたい材料がコンナにあって、書きたくて書きたくてウズウズしているのに、一行も書けないとなれば、その責任は当然、私のペンに在るに達いありません。
 私にはこうしたスランプの因って来るソモソモがさっぱりわからないのです。書きたい事は山積していながら書けない。ペンを奪われて絶海の孤島に流罪されたような自烈度さ。つまらなさ。淋しさ。私は、これを私の老朽のせいとも、行き詰まりのせいとも思いたくありません。何よりも私のペンの我ままが絶頂に達したものと考えるのが、今の私の気持に一番ピッタリしているのです。

 それ位書ければスランプじゃないじゃないか……なぞと冷やかさないで下さい。実は私自身にも不思議で仕様がないのです。どうしても創作が書けないままに、そのお詫びをしようと思って書きはじめたら、ついスラスラと筆が辷ってコンナに長くなってしまったのです。読み返してみると決して面白い文章ではありませんが、しかし、私自身の今の心持だけは、どうやらこうやら書けていると思います。
 いったいこれは何とした事でしょうか。スランプに陥っているペンが、スランプに関する事だけはスラスラと書けると言うのは何という皮肉な現象でしょう。心理学者はこうした不思議な現象を何と説明してくれるでしょう。
 私のペンは真実な出来事でなければ書けなくなったのではないでしょうか。心にもない作り事を書きまわすのがほんとうにイヤになったのではないでしょうか。
 万一そうとすれば、それこそ一大事です。創作は大抵作りごとにきまっているのですから、私は将来永久に作り事すなわち創作なるものは書けなくなる訳です。創作の世界では首を縊らなければならぬ事になります。
 ああ。どうしたらいいでしょう。どうしたらこの苦境を通り抜ける事が出来るでしょう。
 私は今一度、創作の世界に蘇る事が、永久に不可能なのでしょうか。私は絵か、和歌か、俳句を作るよりほかに生きる道がなくなるのではないでしょうか。

(『〆切本2』より)

夢野久作(ゆめの・きゅうさく)
1889年生まれ。作家。本エッセイは1935年3月の発表。この年の1月に日本三大奇書の一つとされる『ドグラ・マグラ』を刊行している。夢野は書いた文章を妻クラに読んで聞かせた。「初めは苦になること」があったが、のちに慣れたとクラは回想している。本エッセイを書いた翌36年、来客との対談中に急死。
 *スランプ  底本 『夢野久作全集7』三一書房


▼【3万部突破!】なぜか勇気がわいてくる。『〆切本』
「かんにんしてくれ給へ どうしても書けないんだ……」
「鉛筆を何本も削ってばかりいる」
追いつめられて苦しんだはずなのに、いつのまにか叱咤激励して引っ張ってくれる……〆切とは、じつにあまのじゃくで不思議な存在である。夏目漱石から松本清張、村上春樹、そして西加奈子まで90人の書き手による悶絶と歓喜の〆切話94篇を収録。泣けて笑えて役立つ、人生の〆切エンターテイメント!



▼【発売即重版!】今度は泣いた『〆切本2』
「やっぱりサラリーマンのままでいればよかったなア」
あの怪物がかえってきた!作家と〆切のアンソロジー待望の第2弾。非情なる編集者の催促、絶え間ない臀部の痛み、よぎる幻覚と、猛猿からの攻撃をくぐり抜け〆切と戦った先に、待っているはずの家族は仏か鬼か。バルザックからさくらももこ、川上未映子まで、それでも筆を執り続ける作家たちによる、勇気と慟哭の80篇。今回は前回より遅い…


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?