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自叙伝

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あまりに遠回りしてきたかのように見える私が 「自分には自分しかいない、そしてわたしは大丈夫」 と、48歳で分かるまでのお話です。
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あとがき

自叙伝を書こう、というアイデアを実行できたきっかけをくれたのは、友人でもあり、これからのわたしの表現の場を考えていく第3の目となってくれた友人、ケイトちゃんでした。 わたしはケイトちゃんにブランディングをお願いすることにし、イタリアに行って写真も撮ってもらいました。(イタリア🇮🇹のことについてはまた書きます) そして日本に帰ってきてから「今のさゆりさんをみてこれまでのストーリーを知りたい人はたくさんいると思うよ。」という言葉に後押しされて、2ヶ月弱かけてメモに書き始めまし

【その11】そしてここにわたしがいる

どれくらい前だったか記憶が曖昧だが、5、6年ほど前に見つけたブログがあった。 そのブログは『40年かけて自分は「大丈夫」だということを知った』経緯を歩んできた1人の女性の「自伝」だった。 波瀾万丈の末の成功物語とか、暴露ものではなく、未経験で夜のホステスをしてぶっちぎりNo.1になったり、かと思えば驚異的な集中力でこれまた未経験の大工や左官まで超プロ級にこなしたり、結婚と離婚、渡伊と再婚、日常の中で様々の気づきを得ながら生きるミユさんと名乗る彼女の自伝を一気に読んだ。 な

【その10】闇の極まりを抜けた先へ

そして2ヶ月ほどで目標だった100セッションを超えた。 次はモニター価格から正式価格への移行を考えていかないといけない。途端に怖くなった。 値段をあげることでお客さまが減ったらどうしよう。モニター価格でもう少しだけ、継続しようかな。でもどこかで「大丈夫、なるようになる。腹を決めるだけだ。」と思えている自分もいた。私の周りにいてくれる友人たちも、絶対大丈夫だと口々に言ってくれた。 怖いだろうけど、さゆりさんは絶対大丈夫。 進んでいこうよ。 そのエネルギーに支えられながら、6

【その9】序章からのグラデーション

そして2020年、コロナ禍がやってきた。 ヨガのクラスが休講になったり、マスクを着用してのクラス開催になったり、アーユルヴェーダでも調理を伴う講座はできなくなった。 私はクラスを減らし、東京でのクラスも辞めた。そして手探りながらオンラインクラスも自主開催するようになった。物理的な時間が生まれ、自分自身もオンラインでの誘導瞑想やzoomでさまざまなクラスを受けるようになった。世の中全体の動きが止まったような静かな時間が新鮮だった。犬の散歩以外、出掛ける予定がないということにホッ

【その8】人生のリスタート、あくまで序章

私は海の近くに部屋を借り、何度目かの1人暮らしを始めた。念願だったサーフィンも再開した。担当しているヨガクラスやWS、アーユルヴェーダの講座で忙しい毎日だったし、ちょうどその頃にご縁あってアスレチックブランドのルルレモン湘南店アンバサダーに選出された。4年ほど前から学んでいたアーユルヴェーダにもこれまでにない使命感に燃えていた。 ああ、ここからが私の新しいスタートだ。 やっとここからわたしの人生が始まるんだと思った。 その頃、7年くらい前から知り合いだった男性と付き合うこ

自叙伝なんで書いてるの?

人生のあまりに多くの無駄のように思える時間を使って、一周回って行き着いた先は、あまりにシンプルなことでした。 わたしには「わたし」がいる わたしには「わたし」しかいない わたし以外の誰かや何かは「わたし」ではない 未来はことごとく、いつだって予想と違う。 ならば、限りなく自由に、やりたいようにやればいいじゃないか。何を感じようと、考えようと、しようとも、大丈夫なのだから!!!! 飛び込んで怪我しようが、しんどかろうが、大丈夫なのだから!!!!!! そうだよね、それしかな

【その7】ループは続くよどこまでも?

結婚して2年目の秋、犬も一緒の伊豆旅行から帰ってきた夜だった。 隣に寝ていた彼に触れられた時に、ほとんど無意識にその腕を思いっきり振り払ってしまった。大声でやめて!!と言ったような気もする。 翌日、当たり前だが、彼は非常に機嫌が悪く、無言で会社に出勤して行った。そしてこれまでも何度となく送られてきた私への痛烈な非難と、いかに傷ついたかがびっしりと書かれたLINEが送られてきた。私はそれまでそういった非難めいた言葉を受けるたびに、心臓がばくばくし、ああ、またやってしまった…ど

【その6】2回目の結婚

しばらく実家暮らしだった私は2011年の夏にまた都内に部屋を借りた。そしてあんなに傷心だったはずが、私を好きだと言ってくれる男性と付き合いだした。イケメンで英語が堪能で、外資系企業に勤めるヨガに興味がある人だった。そしていつかのデジャブのように、父親はエリート、親に愛されていない、親にずっと諦められてきたと思っている人だった。離婚を2回経験しており、子供がひとりいたが一緒には暮らしておらず、心に深い傷がある人なんだなと思った。私といることで彼本来の良さと溌剌とした明るさが戻る

【その5 】最初の離婚と恋らしきもの

そしてその頃、友人に連れていかれた個展で、年下のアーティストの香りがする子に出会い、その軽やかさと私には持っていない感性や独創性、そして自由な場所に連れて行ってくれそうな雰囲気に惹かれ、まさかのあっという間に恋に落ちた。なんだか運命だと思った。(何回目?w) 家族にも全面的に好かれていた優しい夫との関係に半ば無理やり終止符を打ち、保険会社に転職し、懇意にしていた上司に経済的に助けてもらい、都内に部屋を借りた。年下の彼との毎日は刺激的で楽しく、ヨガの練習はあっという間にそっち

【その4】ヨガと出会う

そしてその頃、ヨガに出会った。 幼少時からなぜか仏教や仏像や東洋思想的なものに惹かれていたこともあって、「魂と体の浄化」というコンセプトに興味を持った。インターネットで調べたら、通勤定期で通えるところにインターナショナルヨガセンターの九段下スタジオがあることを知り、思い切って行ってみた。 静まり返ったスタジオ、よくわからないお経のようなマントラ、規則的な呼吸音、インストラクターの方のポーズを真似するというより、決まっている動きを次々に淡々と行う生徒さんたちの雰囲気に心を持って

【その3】最初の結婚

医療事務の専門学校を卒業して、外資系保険会社の健康保険組合の職員になった。 病院への就職を考えたが、実習であまりの向いてなさに絶望して止めた。 そこの健保の仕事は恐ろしいほど日本的で、アナログで、安月給だった。上司は保険会社から天下りしてきた人たちだった。 同期の子とは仲が良かったが、年下の先輩たちには嫌われていたし、わたしもバカにしていたから関係は最悪だった。仕事内容も、仕事環境も何にも楽しくなくて、なんで私はここにいるんだろうと工場勤務の時のデジャブかのように似たような

【その2】夢見たハイクラス

私は実業団を辞め、しばらくして会社も辞めて実家に戻った。 その当時流行っていた医療事務の専門学校に入学した。専門学校は短大卒と同等の学歴になるとどこかで聞いたことも、私にとっては自分の中の誰にも言えない学歴コンプレックス解消になりそうな響きがあった。 早稲田大学の社会人入学を考えていた時もあったが、4年間これから大学に行って、卒業時には26歳になったこの私に何ができるのさと考えたら怖くなって、そこでまた思考は停止、「役に立つであろう、仕事になるであろう」という実利を取りにい

【その1】最初の挫折、そしてループのはじまり

それは高校3年生、進路を決めた時が始まりだったように思う。 わたしは小さい頃から勉強も嫌いではなく、成績もそれなりに良くて、身体を動かすことも得意な「運動神経がいい」部類にいたし、いくら食べても太らなくて、それなりにモテて、挫折らしい挫折という体験をしたことがなかった気がする。 高校時代は中学時代からの憧れだった高校でソフトボールに没頭、文字通り朝から晩まで明け暮れていた。父がその高校の教師でしかもソフトボール部の監督だったのもあって、成績も落とせない。勉強も嫌いではなか