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小説「カフェ・ポート・ブルックリンの朝」第1話(全3話)



「お待たせいたしました、モーニングのガレットです」
「ありがとう、マスタ—」

 カフェ・ポート・ブルックリンのマスタ—は、人の良い笑顔を浮かべた。銀髪のショートカットに、鮮やかな赤い口紅が印象的な女性──世界の歌劇場で「マダム」というシンプルな尊称で呼ばれてきた、舞台美術家・澤松時子も、たおやかな微笑みで返す。

「今日は朝からなんですね、マダム」
「ええ。ちょっと、ゆっくり考えをまとめたくて」
「どうぞ、ごゆっくり」
「ありがとう」

 マダムは、マスターの背中を見送り、プレートについてきたアイスコーヒーをひと口飲んだ。そして、瑞々しい目玉焼きの乗ったガレットにナイフを入れた。カフェ・ポート・ブルックリンのガレットは、伝統的な味わいも大事にしながらも、独創性に溢れていて、彼女のとても好きな味わいだ。自分の味以外の料理が恋しくなった夜には、ここのガレットとクラフトビールを頂きに来ることもある。他にも本格的なイタリアンやフレンチのビストロ、それに台湾料理やベトナム料理のお店があったりと、駒込は世界の味を楽しむには事欠かない街になった。



 マダムは昨日届いた一件の依頼メールを思い返した。再来年の春に、新しいプロダクションでワーグナーの《トリスタンとイゾルデ》を上演するというので、その舞台美術を担当してもらえないかというものだった。場所は、上野の東京文化会館。まあ、山手線で15分もかからずに職場に到着出来るというのはいいことね、とガレットを口に運びながら、彼女は考える。

 ただ……。マダムの手が止まった。そして深い考えに沈んでいく。四十年ほど前に、パリで手掛けた《トリスタンとイゾルデ》の舞台は、彼女の代表作であった。紺碧の空の下に広がる、青い芥子の花畑。後ろにそびえ立つ見張りの塔。月の光にも似た白い光の中で抱き合う、薔薇色の衣装をまとったふたりの恋人たち。恋人たちが哲学的な言葉で愛と真理を確認しあう、この第2幕は特に高い評価を受けた。宿命的な恋人たち、トリスタンとイゾルデが愛の薬を飲むことになる第1幕はワインレッドのグラデーション、死の床でイゾルデの到着を待つトリスタンを描いた第3幕はセピアブラウンと白をそれぞれ基調とし、登場人物の心理を抽象化して表す手法で、舞台を描いていった。この舞台で評価を受けて以来、歌劇場からの依頼がワーグナー作品を主とするようになっていったことも、懐かしい思い出だ。

 マダムは手を止めたまま、ガレットを見つめて、考え続ける。

──私は、あの頃の私を、越えることが出来るだろうか。

 四十年も前の、今よりも若く、才気溢れていた自分。頼る人のいない海外で、自分に鞭打ち、怖いものなど何もないと言い聞かせながら、ありとあらゆる本を読み、舞台と映画と美術館に通い、デザイン画を描き続けていた頃の自分。少しずつ地位を確立出来るようになり、歳月の中ではいくつかの出会いと別れも経験した。そんな中に来た《トリスタン》の依頼。まだ若く、経験も浅い自分には荷が勝ちすぎる仕事ではないかと尻込みしようとしたが、それよりも先に唇が「Oui(はい)」と動いていた。自らの言葉に驚きながらも、そうだ、自分には怖いものなど何もないのだった、と言い聞かせた。そして、彼女は、扉を開いた。その先の未来で、世界の歌劇場で「マダム」という尊称で呼ばれるようになった。

 近年は、インターネットも発達したので現地に足を運ぶのは最小限で済むようになった。また、過去のプロダクションの再演というパターンも多かったため、ゼロから構築する依頼は久しぶりのものだった。それが、自身にとって特別な作品である《トリスタン》であることに、彼女は身のすくむような思いを感じていた。

──私は、あの頃の私を、越えることが出来るだろうか。

 同じ問い掛けを、何度繰り返しただろうか。怖いものなど何もない、昔の自分を越える必要などない、今の自分に出来るアプローチでまっさらに挑めばいいではないか……。そう言い聞かせようとしても、心の深い処から、この問い掛けは浮かび上がってくる。

 なんとも根深くて厄介だわね。マダムは肩をすくめ、苦笑する。食べ終わった皿を確認し、マスターはアイスコーヒーを残してトレーをさげてくれた。

 彼女は、長年愛用している月光荘のクロッキーノートと、8Bの鉛筆を取り出した。私は、何を怖がっているのかしらね。私は、何を怯えているのかしらね。この怯えを引っ張りださないことには、どこにも進めない気がする。



 そこに、鞄が震えた。スマホの通知だ。いい集中状態に入れそうな時だったので躊躇したものの、手が先に動いてスマホを確認した。あら、栞さん。

『マダム、きょうはお出かけですか? うちの会社でサンプルの中華調味料をもらったので、お裾分けしたくって。いまどちらですか?』

 LINEの画面を見て、マダムは微笑んだ。考えるよりも先に指が動き始めた。

『いま、カフェ・ポート・ブルックリンにします。よければいらしてください。ブランチをご馳走しますよ』

 送信して、画面を閉じる。ひとつ、長い息を吐く。そして、彼女は唇の端を上げて、8Bの鉛筆を取り上げた。

──まずは、手を動かすこと。すべては、そこから。

 マダムは強い眼差しで、クロッキーノートにくっきりとした線を、挑むようにまっすぐ引いた。







(つづく)





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