小説「あんぱんと弦月湯」第1話(全4話)
あらすじ
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第1話
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「それだったら、弦月湯に行ってみたらいいんじゃない?」
「へ?」
北三日月町の隣町、巣鴨の駅にほど近いカフェ・ポート・ブルックリンのマスター、セキネコさんはあっけらかんとそう言った。眼鏡の奥のいつも笑ったような眼が印象的な、爽やか好青年であるセキネコさんの本名は、関根さん。ネコが大好きで、SNSのアイコンも自分で描いたネコのイラストにしているから、セキネコさん。街のみんなに愛される、頼れる兄貴だ。
セキネコさんは、みんなに優しい。売れないデザイナーである俺、一条悠平にも優しい。結婚を考えていた彼女にフラれた時も、デザインコンペでうまくいかなかった時も、カウンターでクダを巻く俺の話を気が済むまで聞いてくれた。「出世払いにしとくから」と、いつもの笑顔でクラフトビールもおごってくれた。
そんなセキネコさんが、俺になぜだか銭湯を推してくる。ツァイトウイルスで仕事が減ってきて、今後の活動に行き詰まっている俺に。俺が生まれ育った北三日月町にある昔ながらの銭湯、弦月湯を推してくる。
「でもさ、セキネコさん、弦月湯って昔ながらの銭湯でしょ。俺、子供の頃に行ったっきりですよ」
「それが最近、話題になってるんだよ。悠平くん、知らない? めちゃくちゃ豪華なお風呂場で演奏した芸大の子たちの動画が、SNSでバズってたり。あと文字通りのアーティスト・イン・レジデンスみたいな感じで、弦月湯の離れでアート関連の入居者募集してるみたいだよ」
「……なにそれ、超アツい」
「弦月湯、最近発信も強化してて、SNSも始めてるから、まず検索してみたらどうかな……あ、いらっしゃいませ」
お客さんが入ってきた。セキネコさんはレジに移動する。俺はカウンターで、駒込生まれのクラフトビールであるこまごめ村エールを飲みながら、Googleの検索窓に「弦月湯」と入れてみる。あった。出てきた。noteにTwitter、Instagramもあるんだ。
興味を惹かれて、まずはnoteを開く。まず目を引いたのは、アイコンとヘッダーの写真だ。ガウディ? いや、違う。ガウディを意識しているけれど、ところどころに日本らしい感覚が混ざってる。
そういえば、昔、子供の頃に行った弦月湯は異世界だった。思い出した。たしか、家の風呂が故障した時に行ったんだっけ。親父と一緒に風呂場の扉を開けたら、色鮮やかな魔法の世界が広がってた。
それだ。子供の頃は気づかなかったけど、あの風呂場の内装はガウディを意識したものだったんだ。アイコンとヘッダーの写真と、俺の記憶がつながった。
記事をあれこれと読むうちに、彫刻家の若月弦二郎という人物がこの風呂場の内装を手掛けたことがわかってきた。留学先のバルセロナでグエル公園に感銘を受けた若月弦二郎は、帰国後に民藝の思想にも影響を受け、暮らしの中で質の高い芸術を拡げていくために、家業を受け継いだらしい。いまは、若月弦二郎のお孫さんたちふたりと、スタッフが中心になって運営しているらしい。
「かっこいいなあ、弦月湯」
思わず声が洩れる。こまごめ村エールをぐいっと飲む。熱を帯びた目でnoteの記事一覧を見ていると、固定記事が目に留まった。
「【募集】〈アーティスト・イン・弦月湯〉/弦月湯でアート活動しませんか?」
クリックする。ページの切り替わり時間がもどかしい。出てきた。スクロールしていく。若月弦二郎のお孫さんのひとりは若月暦さんといって、俺と同じデザイナーらしい。少年のような風貌に、くりくりとした紅茶色の髪。中性的な印象だ。その暦さんのインタビューという形で、記事は展開されている。
──『祖父の思いを継いで、ここ弦月湯が新しいアートの発信拠点になるといいと考えているんです。若いアーティストは、みんな機会を求めている。そんな後輩たちが、心置きなく創作や新しく作り出す仕事に熱中できる環境を作れたら……って、ずっと考えていたんです。で、構想したのが〈アーティスト・イン・弦月湯〉。離れが6部屋ほど空いているから、そこを格安で若いアーティストのみんなに使ってもらえたらって思います』
『いまは、ツァイトウイルス禍でみんな辛い時期が続いていると思います。でも、これまでの道が立ち行かなくなってしまった時っていうのは、発想を変えてみるとものすごいチャンスだとも思うんです。これまでの生き方をリセットして、新しく生まれ変わることだって出来るかもしれない。弦月湯では、そんな覚悟を持ったアーティストのみんなを応援したいと考えています』──
……炎だ。この人の内側には、炎が燃え盛っている。俺は目を上げた。ツァイトウイルスで仕事が減ったからってなんだっていうんだ。俺はいつから、美術の道を選んだ頃の初心を忘れていたんだ。これまでの道が行き詰まっているなら、それはこの人の言う通り、これからの道を開拓できるって合図じゃないのか。
いつの間にか、暦さんの炎が俺の心の導火線にも灯ったらしい。気がつくと、記事の最後にあったGoogleフォームに自分の名前と連絡先、そして記事を読んだ感想を熱く書き込んでいた。よし。送信。
ひと仕事終えて、ふうっと息を吐く。お客さんのドリンクを運んだセキネコさんが戻ってきた。
「どう? 弦月湯のSNS、見てみた?」
「早速、〈アーティスト・イン・弦月湯〉に申込みしてみました」
「はや!」
「善は急げって言いますから」
と、スマホが震え始めた。知らない番号からの着信だ。訝しみながらも、出てみることにする。
「はい」
「一条悠平さんのお電話ですか」
「はい、そうですが」
「弦月湯の山口壱子と申します」
背筋が伸びた。善が、猛スピードで向こうからやって来た。
「お……お世話になっております!」
「この度は、〈アーティスト・イン・弦月湯〉へのお申込みをいただき、誠にありがとうございます」
「いえ、こちらこそ!!」
「ちょうどパソコンを開いていたタイミングでしたので、一条さんのメールをすぐに確認できました。読んでいたら、とても熱い思いを綴ってくださっていたので、どのような方か、まずはお電話でお話してみたいと思って。不躾かとは思いましたが、お電話させていただきました」
「ありがとうございます……!!!」
俺は、スマホ越しに最敬礼する。
「ずっと、北三日月町にお住まいなんですね」
「はい」
「それでも、〈アーティスト・イン・弦月湯〉にご入居なさりたい理由がございましたら、差し支えなければお聞かせいただけますか?」
言葉に詰まった。確たる理由はなにもない。俺は少しの躊躇いのあと、口を開いた。
「実は、弦月湯さんのことを知ったのは偶然なんです。いま、隣町の巣鴨にあるカフェにいるんですけど、そこのマスターのセキネコさんという方に、弦月湯のことを教えていただきました。そのあと検索して、一気にnoteを読みました。その中にあった、若月暦さんって方の言葉が、ものすごく響いたんです。俺も今、これまでの人生が立ち行かなくなっています。でも、弦月湯でなら、これまでの人生をリセットして、新しくスタートすることができるかもしれないって、雷に打たれたように思ったんです。理由は、それだけです」
耳に当てたスマホから、静寂が流れた。俺は目をつむった。ああ、だめだ。こんなアホみたいな、何も考えていない理由じゃだめだ。
「……一条さん、とても面白い方ですね」
「へ?」
俺はあっけにとられた。電話の向こうの女性、山口さんは笑っている。
「ものすごくストレートすぎて、思わず笑っちゃいました。ごめんなさい。でも……わかります。私も同じだったから」
「え……?」
「よろしければ近日中に、面談にいらしていただけますか? 三代目と、暦さんも交えて、お話できれば幸いです」
「は……はい!! どうぞよろしくお願いします!!!」
日程を決めて電話を切ると、セキネコさんがチェシャ猫みたいなニヤニヤ顔でこっちを見ていた。
「セキネコさん、まじスゲえっす」
「僕はなんにもしてないよ。行動したのは悠平くんじゃない」
「いや、でもきっかけをくれたのはセキネコさんですから。……村エール、もう一杯ください」
「グラス? パイント?」
「パイントで。なんだか勢いよく飲みたくなりました」
「了解」
セキネコさんは手際よく、サーバーでこまごめ村エールを入れてくれる。ここ、カフェ・ポート・グラスゴーは生のクラフトビールが飲めるのが魅力のひとつだ。
「悠平くん、村エールほんと好きだよね」
「うん、味が好きなのはもちろんなんですけど、ストーリーがいいじゃないですか。駒込の人たちが仲間になって、自分たちの手で新しいビールを生み出したって背景が、もう、ぐっときますよね」
「ありがとね。……もうすぐ店じまいだから、僕も少しだけ飲んじゃおっかな。なんとなく、悠平くんと飲みながら語りたい気分」
「嬉しいですね、セキネコ兄貴」
「兄貴はやめろって」
セキネコさんと乾杯をして、なみなみと注がれたこまごめ村エールを喉に流し込む。やっぱり旨い。
「金曜日の夜に、グラスゴーで飲む村エールがいちばん旨いです」
「嬉しいね、そう言ってもらえると」
「そういえば、セキネコさんって、どうしてカフェの仕事をしようと思ったんですか?」
セキネコさんは村エールをひと口飲んで、口を開いた。
「もともとは、シンプルな憧れからのスタートだったんだよ。起業するなら、自分で理想とするカフェをやってみたい!! って思うようになって、いまの会社を立ち上げたのが大学3年の時」
「大学3年!? 俺、バイトしかしてなかった……すごいですね」
「でも、最初はうまくいかなくてね。スーパーで60円のあんぱんも買えない時代もあったんだよ」
「そうだったんですか……」
いつも笑顔のセキネコさんに、そんな過去があったとは知らなかった。
「ボロ雑巾みたいになってたんだけど、それでもカフェをやりたいって気持ちは変わらなくてね。それで、シアトルズベストコーヒーってカフェで働き始めて。最初はそこでもうまくいかなかったんだけど、一日一日やれることを積み重ねているうちに、コーヒーマイスターの資格を取ったり、店長をやったり、エリアマネージャーやったりしながら、経営のノウハウを学んでいったんだ」
「セキネコさん、まじ努力の人ですね」
「まあね。努力って話でいうと、今でこそ僕はコミュニケーション得意だと思われているだろうけど、最初はめちゃくちゃコミュニケーションが不得意だったから、それもめちゃくちゃ研究して、勉強して、練習したんだよ」
「えーーー!?」
知らなかった。セキネコさんは、生まれた時からのコミュニケーション強者だと思ってた。
「けどね、不得意だったものほど、一生懸命研究して、勉強して、練習して、磨いていくと、自分の武器になってくれるんだよ」
「それは……いまのセキネコさん見てると、すごくわかります」
「駒込で1号店のカフェ・ポート・ブルックリンを開店させた時も、物件決めるまでに16,000件ぐらいの物件をチェックしていったんだ」
「16,000件……クラクラしてきますね」
「物件が決まるまでは、店のコンセプトづくりに時間をかけたよ。大学時代に学んだホスピタリティ・マネジメントを基に〈交流〉っていう軸をまずは打ち立てて。そして、現代が抱える課題を、異なるバックボーンや文化を持つ人々が協力して解決していける場所にしたいと願って、〈港〉ってキーワードを店名に入れたんだ」
「それで、1号店はカフェ・ポート・ブルックリンだったのか。じゃあ、ブルックリンは?」
「〈ブルックリン〉はもともとはただの倉庫街で、ニューヨークには住めない若手のアーティストや起業家が集まる場所だったんだよ。その新しいものを生み出していく空気感やエネルギーが好きでね。それで、1号店は〈カフェ・ポート・ブルックリン〉って名前にしたんだ」
「なんか、それっていまの弦月湯とちょっと似てますね」
「そうかもしれないね。だから、弦月湯の新しい挑戦もなんだか他人事と思えないんだよ。悠平くんの挑戦もね」
「俺も?」
「うん、そう。僕はいつだって、挑戦する人の味方でいたいから」
眼鏡の奥のセキネコさんの目が柔らかい三日月になった。
「……俺もいつでも、兄貴の味方ですから!!」
「だから、兄貴はやめろって」
セキネコさんに笑いを返して、村エールをぐいっと飲む。俺の挑戦。俺は、何に挑戦するのだろう。俺は、何をやめて、何を新しく始めるのだろう。わからないけれど、目の前に来たこのビッグウェーブに乗ってみよう。
(つづく)
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