小説「カフェ・ポート・ブルックリンの朝」第2話(全3話)
「マダム、おはようございます」
作業に没頭していると、頭上に明るい声が聞こえて、マダム──舞台美術家・澤松時子は顔を上げた。マンション「ヘーヴェ駒込」の住人、堀口栞の笑顔を確認し、マダムも口元が緩んだ。手で座席を示すと、栞はぺこりとお辞儀をして、腰を下ろした。カフェ・ポート・ブルックリンのマスターが水の入ったグラスを持って来る。
「朝は、ご注文をレジでお願いしますね」
「あ、そうでしたね」
「どうぞ、ごゆっくり」
マスターは頭を下げ、にっこりと笑う。
「栞さん、どうぞお好きなものを頼んで」
「ありがとうございます、でも今朝はもう、朝ご飯食べちゃって」
「あら」
マダムは目を丸くした。引っ越してきたばかりの頃は、いつも栞の土曜の朝は遅く、食事もろくに取らないことが多いと聞き、それをマダムは心配していた。事あるごとに用事を作っては差し入れを持たせたり、野菜ジュースを持たせたりするように心がけていた。仕事になると身を削って取り組む栞の姿が、若い頃の自分と重なって見えたからかもしれない。
「今朝は何を召し上がったの?」
「簡単なものですよ。おにぎりと、卵焼きと、お味噌汁と……」
「まあ、素敵ね」
「実はね、最近、お味噌汁にはまってて。今朝はオクラとミニトマトとベーコン、それにちょっぴりの牛乳と、粉チーズと黒胡椒でアクセントつけてみました」
「その組み合わせ、美味しそうね」
「でしょう? Twitterで知ったレシピを真似してみたんです」
そして栞は明るい声で笑った。つられて、マダムも口元が緩む。そういえば、栞さん、よく笑うようになったわ。そんなことに思い至り、マダムは胸の内で小さく安堵した。
「だから、今朝は飲み物だけで大丈夫です。マダムとブルックリンさん来られるんだったら、海老とアボカドのサンドイッチ食べたかったな」
「何になさる?」
「いいんですよ、私もマダムに会いたかったので。それにマダム、お仕事中だし」
立ち上がろうとするマダムを手で制し、栞は小さな生成りのトートバッグを持ってレジに向かった。アイスカフェラテください、という栞の後ろ姿を見つめるマダムの口元には、微笑みが刻まれた。
──さて、ここからどうするか。
マダムは、クロッキーノートを見つめ直した。クロッキーノートの横には、別便で演出家から届いた今回のコンセプトや、資料をまとめたファイルが鎮座している。夜中に眠れないままに、届いた資料のプリントアウトをし、一冊のファイルにまとめ直したのだ。
知的かつ革新的なアプローチで、作品に新たな方向から光を当てるこの演出家とは、何度も他の歌劇場で、そして他の演目で、一緒に舞台を作り上げてきた。だから、深い信頼関係も結べている。その上で、マダムの定本とも言える《トリスタンとイゾルデ》の舞台デザインを、まったく新しいアプローチで作ってほしいというオーダーが届いた。英語で書かれたメールには、「あなたの芸術的な判断のすべてを、信頼しています」とも書かれていた。
この有難い言葉も、ずっしりと重たく感じた。そして、逡巡して動けなかった。ようやく腹を括って、ラフスケッチをざっと描き始めてみたものの、しっくりはまっていないのは自分でも感じていた。
──このまま進めても、違う駅に到着してしまうから、ここでやり直しにしましょう。
マダムは深い息を吐いて、ラフスケッチを見つめた。そして、日付と共に、「001」と番号をふった。思考の過程は蓄積させておくのが、これまで培ってきた仕事のやり方だ。
「マダム、考え事ですか?」
いつの間にか席に戻っていた栞が、声をかける。そして、大きなジャーに入ったアイスカフェラテの氷をかき混ぜる。からんからん、という音が涼しげに響いた。その音を聴いているうちに、口がすっと開いた。
「そうね、考え事。珍しく、悩んじゃって」
自分の口から放たれた言葉に、マダムは驚いた。これまで重要な判断は全て、自分で決めてきた。人から相談されても、人に相談することは殆どなかった。
──けれど……。
マダムは、胸の内の小さな変化の兆しを愛おしむように、深く目を閉じた。そして、ぱちりと目を開き、栞を見つめた。栞はアイスカフェラテのストローを手に、静かにマダムを見つめている。まるでライラックの花のようだと、マダムは思った。
(つづく)