私に難しいことがあっても、私も努めて、みんなと心地よく過ごしたい。
「確かに注意欠陥寄りの、ADHDの可能性がありますね。もし本格的に検査を受けたい場合はここではできないので、専門機関にあたってみてくださいね。」
病院通いが終わったのは、昨年のクリスマスだった。長らく通った。早く終わると思っていたのに終わらなくて、毎月の出費がひりひり染みた。そろそろ元気なんやけど‥と思っていたこの1年くらいは、このまま永遠に通ってぼったくられる生活なのだろうか‥と思ったりもした。
ご心配なく、私は今おかげさまで元気です。
自分の体調不良がどうだったかについてはここで明言はしませんが、約2年前のあの時の自分は、自分が自分であったことが信じられないくらい深刻モードだった。とにかく生きていかねばという必死さと、軽やかに進んでいかねばという勝手なプレッシャーと、様々な局面に向き合っていくうちに
ある日、心も体も停止した。
人は深刻モードになっているとき、本当にあぶない。自分が自分じゃなかったみたいだった。
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数ヶ月病院通いが続いてきて、自分を落ち着いて見る余裕がうまれたころ、「これはもしかして、私の注意欠陥状態によって、私が困っているという状態では?」と、ふと気付いた。仕事柄、勉強していた時の視点とはまた変わった感覚を得たことを覚えている。
その日からADHD関係の本をひたすら漁った。研究や仕事柄読んでいたものを読み直したり、読んだことないものもとにかく読んだ。
結構元気になってきた頃、元気すぎて本もある程度読みきって自己分析モードに入っていた私は、病院で簡易テストをお願いした。ネットとかに落ちているのよりももう少し具体的な質問で、量も多かった。その1ヶ月後に言われたのが、先の言葉だ。
ここから検査をうける人が多いのだろうけど、私はあくまで自己分析的に見つめたかっただけなので、傾向がわかっただけでも十分手がかりになった。就活生の自己分析ツールを使っているようなものだ。
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薬を飲んでも対処療法にしかならないことはわかっていたし、そもそも診断を正式にもらったわけじゃないし、とはいえ自分の注意欠陥とこれからも末永く生きていくためには、自分で自分を何とかするしかない。
ここから、私の自己実践研究モードが発動した。
人様に迷惑をかけたときや、それによって私にダメージがあったとき、私がどんな行動を取っていたのかを見直し仮説をたて
そうならないためにどんな環境をつくると良いのかを、実験しながらその成果を検証し
自分が得意だったことを思い出してアイデアを考える—
という日々が始まった。結構楽しい。
うまくいく日もあれば、せっかくはじめてみたものがうまくいかないときもあった。その時の私は、先のテストをきっかけに、私による私のトリセツを作り始めることができた。という段階である。
身体的不調も今はかなりましになってきた。健康で文化的な最低限度の生活を取り戻した感じだ。
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習慣のデザインについてこれから書くよ、と言ってみたものの、私による私の実験結果ばかりがEvernoteに蓄積されていくばかりだった。
どうやって公開したら良いのかわからないまま4月になった。どうしようかなと思っていた時、藤坂さんのnoteと出会った。
個人的な感覚だけど、発達障害という言葉がここ最近ちょっと過剰なまでに取り上げられているように思う。これまで、発達障害の特性によって起こるトラブルはすべて「そのトラブルを起こした本人の性格に問題がある」とされていたけれど、「大人の発達障害」の登場により「これは性格ではなく特性だから」というロジックが通るようになり、それに乗っかっていろいろな人がいろいろなことを言う。例えば時間をいつも守れない(ADHD)とか、こだわりが極端に強い(ASD)とか、それらに対して「発達障害の特性によるものであって、個人の努力で改善するには限界がある」という言説がそこかしこで見られるが、当事者としては正直なところ、そうした言説をどういう気持ちで受け取れば良いのかわからない、と感じることがある。理解してくれるのはありがたいけれど、直せるところは直したいし、個人の努力で改善できる範囲は人と関われば関わるほど更新されていく。確かにわたしはこだわりが強いかもしれないけれど、そのせいで場の雰囲気を壊したり物事の進行を妨げることは決して望んでいない。もしそういう事態になったらきちんと指摘してくれたら嬉しいし、改善方法を一緒に考えてもらえたらもっと嬉しい。
「共存」とは、単純な「多様性を認め合いましょう」という道徳を掲げることではない。徹底的に分かち合えない生き物同士が、ときには互いに疲れ果てるまでぶつかり合って「しょうがねえな」と言いながら最適解をどんどん見つけていくことだと思う。
とにかく共感したし、このnoteがなかったら、多分私はこの記事を書いてないと思うので、感謝しかない。
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診断をもらうほどのことじゃないけど、どうも自分の特性がもたらす生きづらさがあると思う人も、実は多いんじゃないだろうか。「発達障害」という見方があるからこそ「発達障害というほどでもないと思うけど偏り」を自覚している人が、どうやって心地よく生きる手がかりを見つけていいかわからない事例があるんだなと思った。
そんな中Collableではここ数年、グレーゾーンの人たちにもいかに目を向けるか、という議論をしてきてもいるのだが、これもグレーゾーン的だなとふと考えた。でも「グレーゾーン」も、社会が勝手に言ってるだけだ。私は私でしかない。
そして私は「ADHD(ADD)と言われたい」わけじゃない。たまたま注意欠陥っぽい偏りがあることによって、もたらす悲しいことを防ぐために自分をサポートし、周りの人たちと共に生きたいそれだけだ。あとは市販の本が、私を手助けしてくれるし、幸い私は私を変えるため、もしくはみんなとご機嫌でいるために、どうするべきかを自分の頭で考えて行動してみることができる。私に難しいことがあっても、私も努めて、みんなと心地よくありたい。
—そう思うのは、私だけじゃないはず。そんなことを持ってして「習慣のデザイン」を考えていこうというのが、この連載の意図です。実験の1つの成果として「習慣」というキーワードが、何か手がかりになりそうだと思い、今日に至ります。
こういうことを書くのに躊躇しなかったわけではないです。大きい組織を経営しているわけじゃないけれど、起業している身としては、こういうことを書くのはタブーみたいな感じもあるし、リスクにもなるんかなと思っていたりもしました。もう2年位どこかで吐き出したかったんだけど、藤坂さんのnoteに背中を押してもらったと思っています。これに向き合わないと、自分の事業にも向き合いきれないかもなと思い、最近少しご無沙汰だったnoteを開いてみたりしたわけであります。
実験の様子をこれから書いていくにあたり、個人的な情報が出る時は一部有料にするかと思いますが、基本的には無料で書き続けていきたいと思います。なお、めっちゃ参考になる記事!と思ったら、勝手にマガジンに入れています。たとえばゆかのこの記事とか。最高に良い記事まじで。
私が私の習慣を作る過程をできる限り共有しながら、色んな人に知恵をもらい、もしくは一緒にトライしていく仲間ができたらいいなあ、なんて思っています。
そしてこれからも、どうぞよろしくお願いします!
追記:自分の注意欠陥を長らく気にせずに生きてこれたのは、本当にこれまでに機会を与えてくださり、見守ってくださる方々のおかげです。最近毎日そう思ってます。ありがとうございます。
最後にこれを書こうと思ってたのについぬけてました。。わはは。。
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