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連載小説 │ 僕らが彷徨う小さな世界

『僕らが彷徨う小さな世界』 著者:降谷さゆ

僕らの目に映るのは世界のほんの一部。
壮大な宇宙のなかで塵のようにちっぽけな僕らの悩みなんてあってないようなものなのに、見つからない答えをいつまでも探している。
これは、小さな世界で彷徨う人たちの物語。


【第1話】 桜

桃色に染まった空を仰ぐと、感傷的になる。
世間では「出会いの季節」なんていうけれど、新たな出会いに心を躍らせるよりも、昔を思い出して心がざわざわする。

春は、なんだか憂鬱だ。

僕は、片田舎にこぢんまりと佇む大企業の支店に勤務している。たったの五人しかいないこの職場に求められるのは即戦力。若手が配属されることなんかないからいつまでも最年少の僕は名ばかりの中間管理職。

本社には事務員が何百人もいるのに、若手と呼ばれなくなってからしばらく経つ営業の僕がいつまでも「兼」事務員。
今ではお茶出しも備品管理も電話応対も息をするのと同じようにこなしている。

東京の有名大学の付属幼稚園を当たり前のように受けて、大学までエスカレート式に進学して、先輩からの誘いで採用直結型インターンに参加して、誰もが名前を聞いたことがある大手企業に入社した。
そんな経歴に違和感を持ったことはないし、友人たちも同じような人生を歩んでいる。

そんなとき、早期リタイア、いわゆるFIREを達成して島国で悠々自適に暮らす先輩の話を聞いて田舎暮らしに強い憧れを抱いた。
少し歩けば海も山もあって、そこからの景色は絶景で、満員電車とは無縁の生活。
FIREなんて発想がなかったし、ボーナスを海外旅行やブランド品につぎ込んでいた僕が先輩と同じ選択をすることはできないけれど、僕の心変わりをまるで見透かしたようなタイミングで社内転職制度が導入されたから真っ先に手を挙げた。

田舎の仕事は楽だと思っていた。
田舎は流れる時間がゆっくりだと聞いたから。

もう十年も働いたし、それなりの役職も与えてもらって現状には満足している。これからの人生の方が長いんだし、出世レースを戦い続けることよりもゆっくり生きることを選ぶのも悪くない。

……そんな甘い考えでの異動は大誤算だった。

とにかく人手が足りない。
「働き方改革推進」とか、「ワーク・ライフ・バランス実現」とか、「コンプライアンス遵守」とか、そんな企業姿勢を対外的に発表していたのは本当にこの会社だったっけ?
まるで「24時間戦えますか」が新語・流行語大賞にランクインしたバブル時代のモーレツ社員だ。

なにも難しい仕事に時間がかかっているわけじゃない。
ファックスを送るためにいちいち会社に戻ったり、パソコンが苦手な得意先の担当者に資料を一枚渡すために訪問したり、書類は手書きがルールだったり、ちょっとしたやり取りすべてに時間がかかる。
「デジタルを活用して効率化していきましょう!」なんて提案をした日もあった。でもそんな僕に向けられたのは冷たい視線で、「これだから都会人は」「まるでこの町のことをわかっていない」なんて嫌みとともに一蹴されてしまった。

この町はよそ者を受け入れてくれない。
どんなに便利でも新しいことを始めることに後ろ向きだ。
かといって東京に戻ろうと思っても支社から本社への募集はめったに出ない。

……僕はもうこの町から逃れることはできない。

だから、東京にいたころの僕を消すことにした。
「郷に入れば郷に従え」とはよく言ったものだ。

聞き取れず、ましてや意味なんて全くわからなかった方言も使ってみれば案外馴染むもので、言葉の変化とともに疎外感が少しずつ薄れていった。
メールを読んでくれない担当者も会いに行けば歓迎してお茶菓子まで出してくれるし、手書きの文字を見て「育ちがいいのね」なんて褒めてくれることもあった。

この町での生活も五年が過ぎた。
休みもプライバシーも流行りの店もないけれど、案外悪くない。

東京よりも一足遅く桜が咲いた。
今年も『同窓会のお知らせ』が届いた。

出席にも欠席にもマルをせず、込み上げてくる感情を押し殺して今年もデスクの奥にしまい込む。

―  第1話 桜 【完】―

【第2話】 梅

夏が訪れる前のこの季節が好きだった。
青梅のへたをひとつずつ丁寧に取りながら、自家製の梅酒を夜風の心地よいベランダで彼と一緒に飲むことを楽しみに想う季節。

でも、ある年からその楽しみはなくなってしまった。
「田舎で働くことにした」
……って、突然彼が言ったから。
ついてきてほしいと言ってくれると思っていた。でも、ほしかったその言葉はなくて、彼はひとりで行ってしまった。

嘘でも寂しそうにしてほしかった。せめて別れの言葉がほしかった。
でも、彼は田舎に戻ってからの生活を思い描いて目を輝かせるばかりで、私のことなんて頭の片隅にもなかったみたい。

「引っ越し完了! やっぱり空気がいいし、何を食べてもおいしくて最高」
なんて人の気も知らずのんきなメールをしてきたのが最後だったっけ。いや、私も一応返事はしていたかな。
もう思い出せないくらい遠い記憶になった。

ひとりで飲む梅酒はなんだか前よりもおいしくなくて、それでも毎年母から青梅がたくさん送られてくるから欠かさずに作っている。
ただひとり、心を無にして黙々と作業するだけの時間。

私たちは、選択を繰り返しながら生きている。
イギリスの名門ケンブリッジ大学の研究によると、人は一日に三万五千回もの選択をしているのだという。何時に起きようか、朝食は何にしようか、どの道を通ろうか、とか。
彼が田舎を選んだのも繰り返してきた選択のなかのひとつ。

たくさん選択の機会を与えられているのに、臆病な私はいつも無難な選択をしてしまう。地元の高校、大学に進学して、実家から近い企業に勤めて、ありふれた毎日を過ごしている。
それが幸せかと聞かれたら答えに迷ってしまうけれど、悪くはないと思う。

でも、「一緒に行きたいって」言えなかったことをずっと後悔しているし、私はこのままで本当にいいのだろうかと毎日悩んでいる。

「……素敵、ですね」
考えるよりも先に言葉が出ていた。
毎日積み重なっていくメールと書類だけに目を通す日々。それなりに職場の人たちと上手くやってきたつもりだけれど、代わり映えのない毎日をやり過ごすように生きてきた私は他人に対してどこか無関心だったから、自分の口からそんな言葉が出てきたことに驚いた。
ましてや相手は雑談なんかしたことがない隣の部署の先輩。

「え? あ、このネイルですか?」
「あ、急にごめんなさい」
少し驚いた表情をしていたのでとっさに謝ってしまう。
でも、返ってきたのは柔らかな笑顔だった。

「ふふっ、ありがとうございます。初めてネイルサロンに行ってみたんです。だから気付いてもらえて嬉しい」
そう言って私の方に向けてくれた指先はつやっと輝いていて、淡い桃色のグラデーションと小さなラメがとても上品だった。

「綺麗……」
「お店紹介しますよ」
「い、いえ。見せる相手もいないので……」
「オシャレは自分のためですよ」
「自分の……ため」

週末、紹介してもらったネイルサロンに足を運んだ。
こぢんまりとした店舗だけれど、フワッと漂うアロマの香りと飾られたドライフラワーがなんだか都会的。
百種類以上あるカラーやパーツ、その配置、どれを選ぶとセンスがいいかわからなくてお任せにしてしまったけれど、先輩のような綺麗なグラデーションにワンポイントのストーンを配置した愛らしいデザインに仕上げてくれた。

毎日どんよりとした曇り空のような気持ちだったのに、この日の帰り道は澄み渡る青空だった。

昔、彼が「似合うね」って言ってくれたワンピースに着替えるとネイルがより映えた。
今さら彼を追いかけて田舎に行く勇気はないけれど、このままちょっと遠くまでお出かけしたいな、誰かに会いたいな、なんて気持ちになる。

後悔しても、ありふれた毎日でも、それもきっと悪くない。
でも、心のときめきに正直になると、いつもと違った明日が待っている。

今年の梅酒は誰かと一緒に飲めるといいな。

―  第2話 桜 【梅】―

【第3話】coming soon… 


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