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「大食い芸」と「過食」の違いと、「過食」の庇護をさせて
大食いタレントを代表とする「大食い」も過食症の「過食」も
限界になっているであろうパンパンの胃のせいで、
身体に収まっている臓器は、
柔軟に形を変形させて、腹壁に沿うように収まっているんだろうと思いますが、
内臓全体は圧迫され、かなりの負担を強いられているんだろうと思っています。
胃がパンパンになることは同じでも、
「大食い芸」と「過食」は異なります。
大食いタレントさんやフードファイターは、「大食い」をお金を稼ぐ手段や目的以外に、
「自分の生きる道」「生き甲斐」「自分の限界への挑戦」
または、
「自己アピール」「自己顕示欲を満たすため」
そう捉えていると思うので、
大食いに対して、
「極めていく」「追求している」
「大食いへの愛」「大食いへの忠誠心」
を持っているように感じています。
競技で身体を酷使して身体的スキルを鍛え上げるアスリートと同じで、
大食いで身体を酷使して大食いのスキルを鍛え上げていて、
だからこそ「フードファイター」とも呼ばれ、
やっぱりもう最終的には「自分との闘い」になっているんでしょう。
「大食いへの愛」「大食いへの忠誠心」に、
「健康が心配・・・」
とか余計なことは要らないんでしょうね。
フードファイターや大食いタレントとして生きていくのであれば、
健康を捨てるような覚悟を持たないとダメかもしれません。
SDGsやフードロスが叫ばれ
その日を生きる水と食料に苦しむ貧しい国のことを考えろ
と大食いは批判されていますが、
自分の命をかけて、自分のアイデンティティとして限界まで食べ続けるのなら、
食べ物が豊富に手に入る時代においては、
それはそれで個人の生き方として有ってもいいんだろうと私は思っています。
一方の「過食」はというと、
その行為が、
大食いタレントさんやフードファイターのように、お金を稼ぐ手段や目的にはならないし、
「自分の生きる道」「生き甲斐」「自分の限界への挑戦」
になることはありません。
過食を極めて「過食の追求」も「過食への愛」も「過食への忠誠心」もないです。
社会という生きにくい場所で
「今を生きる支え」
として過食しています。
過食してしまう自分を嫌悪して、罪悪感を抱いているので、
フードファイターとは異なるところで自分と闘っています。
過食も、
SDGsやフードロスから
貧しい国のことを考えろと
吐くなら食べるな
と批判されますが、
そう批判する人が、
本当に貧しい国に思いを寄せての発言なのか疑問で、
ただ、批判や非難を浴びせたいだけのように感じます。
私は過食してきたことに対して、
食べ物を粗末にしてきた自覚はあるし、
そのうち罰が当たるだろうと思ってもいるけど、
言い訳かもしれないし
過食している人を庇護するようだけど、
本気で過食をやめられずに身体を酷使し続けて、苦しんでいる人がいることを知ってほしいと思っています。
過食症の人は、
過食の罪や代償は、身体で払うことになることも承知の上で、
自分には過食が必要だと割り切って、
いつか自由になるその日まで、
過食とともに進んでいくしかないのが、
過食症の本当の苦悩だと思っています。