毎日note更新が23日間しか続かなかった私の、書くモチベーションについて考えてみた
noteを更新するのはもう一週間ぶりになってしまった。
ちょうど一週間前、ようやく夏休みの初日を迎えたという日に、これまで維持してきた「継続への強い意志」はぷっつりと切れた。
結局23日間しか続かなかった私としては、「必ず毎日を継続している人」というのがどれだけすごいことか...ということを非常に実感したのであった。
今回、23日間続けて思ったのは、時間がないはずの平日にはなぜか書くことができるのに、時間がたっぷりあるはずの休日には書けない、もしくは書くのがより大変だと感じるということだった。
平日では、職場で感じるストレスによって潰されそうになる自分の心を守るために、睡眠時間や気力を削って書いていた。
しかし休日は職場の人と接する必要がないし、私を全部認めて愛してくれる恋人と一日中一緒にいられる。たとえ書かなくて私が私らしくいられる場所がここにあるわけで、刺々しく「書かなければ」という衝動を感じることもない。休日にやりたいことはたくさんあるし、それをひとつずつこなしているうちに、夕方になって、今日も書いていないという罪悪感を感じながらも、ゆるりと過ごす時間の心地よさに流されていってしまう。
「毎日更新」なんて誰に強制されたわけではなく、自分で決めることだからいつでもやめることができる。そして、いつでもまた始めることができる。
だからこそ私は改めて考える必要があった。「なぜ書くのだろう?」ということについて。
無理してでも平日に書き続けるのは、自分にとって理に適うものだ。自分が自分らしくいられる唯一の場所を守るために、私は書くことを必要としていた。しかし、ただそこにいるだけで、自分らしくいられる場所にいるとしたら、私は書くことを必要としなくなるのかもしれない。
私が時間がない平日に書き続けていたのも、結局、つらい現実から「逃げたかった」だけなのだ。辛いときばかり執筆にすがりつき、苦難が過ぎ去れば、あっさりと執筆を手放す。それは、私の創造性は苦しみから生まれている、と考えることもできるけど、それはあまりにも安直な考えではないだろうか。
私は、人生が幸せなときに苦しい時も創造し続けたいと思っているし、きっとそれは可能だと信じているからだ。
私にとって難しいのは「雨の日や風の日」に書くこと以上に、「晴れの日」でも書き続けることだった。この世界に何の苦しみがなかったとしても、書き続けるためにはどうしたらいいのだろうか?
そもそも、なぜそこまでして書くことに書き続けるのだろうか?
それは、私にとって、書くことは祈ることに近い行為だからなのではないか、と考えている。平穏な日々にでも変わらずに書き続けること、それがいつか人生が暴風域に入った時に、吹き飛ばされそうな自分を下支えしてくれるのではないか。
苦しいときの神頼みではなく、平時にも変わらず祈り続けること。
すなわち書き続けることで、私は理不尽で不条理な現実世界の荒波にもまっすぐ立ち向かうことができるのではないだろうか。
これから毎日とは言わないけど、更新を続けていこうと思う。
やりたいことを十分にできて、書きたいことを存分に書けるような、そんなちょうどいいペースをつかみながら、ぼちぼち更新を続けていきたい。
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