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カケナイーヨとマアイッカ

あらあら気づけばもう9月。
涼しくなって半袖が寒いから慌てて秋服を探す。
毎年毎年「服がなーい!」と言っては適当に薄手のカットソーやらパーカーやらに袖を通して、秋服は買い足されないままいつの間にか冬になる。
そんなことを繰り返す。そんな秋。大好きな秋。

最後にnoteを書いた5月から一体何をしていたのかというとただただ日常が慌ただしく目まぐるしく過ぎ去ってゆくのを眺めていた。月日は百代の過客にして、行きかう年もまた旅人であるのを粛々と感じていた。まったくのうそだけど。適当。

久しぶりに文章を書くのでどうやって起承転結作ろうかなーと暫し考える。出てこない。どうやって書いていたのかわからない。だって今はもう書けないから。書いてるけど。なんとかね。

だから、タイトルの「カケナイーヨとマアイッカ」なのである。
ルドルフとイッパイアッテナみたいでしょ。かわいいでしょ。

そう。前のnoteにも少し書いているのだけれど、文章を書けなくなって半年。えー、半年も経つんだなぁ。

わたしは別の場所で文を書いて遊んでいる。そう遊び。趣味。
それを4月からまったく書いていない。書けないのだ。

文章を組み立てようとする。
ふと浮かんだこと、文字、羅列、ほどける、バラバラに。
文字がこっちにおいでーと読んでも並んでくれない。
好き勝手散り散りに飛んで行っていなくなる。
そしてわたしの前にはがらんどうだけ残されている。

4月以降に何度か作品として出したものは、それ以前に骨組みを完成させていたものだ。それももうない。手持ちのカードはない。

書いてほしいと言ってもらったことがある。時間をもらえば書けると思っていた。書きたいことも、薄っすらした内容もあるのに、繋がらない。逃げていく。お待たせした挙句、ごめんなさいをした。

書けないことに対して、悲観的になったり、周りはいっぱい書いていてすごいなあそれに比べてわたしは、という気持ちになることは一切ない。
書けないならしょーがない、まあいいかってそう思っているしそれだけのことなので。

ただ、気持ち悪い。書けないことと、そういう自分が。
創作欲と感性が満たされない。書きたい書きたい。

でも書けない。できない。やだなあ。

それでね、書けないと読めないは平行していて、大好きな読書ができないのが辛い。そっちの方が辛いんだ。
本屋に行って、気になる本を手に取る。以前ならば、3時間あればすべて読み終わるくらい集中して文章を飲み込んでいた。
なんでこんなに滑っていくのだろう。
なんでこんなに読めないのだろう。

こうして積読が増えていく一方だ。
積読なんてしたことなかったのになあ。

なーんでできないんだろうってのは大体わかっていて、端的に申し上げると疲れているのだ。しょーもない。でも根本。

脳みそのリソースを文章に費やすことができない。
キャパオーバー。

色んなものを飲み込んで取り込んで押し込んで。
消化できないまま片づけられないまま毎日をとにかく過ごしている。
目の前にあることを。育児を、家事を、仕事を。
愚痴をこぼすことも、涙を流すことも、笑うことも、寝ることも、おしゃべりすることも、一人でご飯食べることも、ままならないまま今日を迎えて明日になる。日常。

何か戻ってくるきっかけに、このnoteを書こうと決めて二か月。
ようやく形になってきたね。
夏休みの宿題としては提出期限切れの落第生だけど、何の実のあることもオチもなーんもない文章だけど、書けてよかったなあとそれだけ。
読んでくれる人がいてもいなくてもいい。
書いたという事実が欲しかっただけそれだけ。

「文章を書くのはやっぱり楽しいんだよ。」
カケナイーヨはそう言うと少しだけ寂しそうな顔をした。
マアイッカは肩を組むと歌うように言った。
「まあいいじゃん。なんとかなるじゃん。いつかきっとさ。」
そしてそのまま足を前に進める。
どこへ行くかなんて決めてなかったけど、2人は進み続けた。
声をそろえて歌うように。楽しく明日へ。
「まあいいじゃん。なんとかなるじゃん。いつかきっとさ。」


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