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ストリップ劇場の思い出

 私が保健師として担当していた地域には、かつてストリップ劇場があった。今は芝居小屋になっている。地域を巡回する時そこを通る度に、そのストリップ劇場を1人で訪れた日のことを思い出す。

 あの可愛いダンサーたちは、健康に暮らせているのだろうか。今はどんな暮らしをしているのだろう。
 今回は、私がベリーダンスの講師の仕事をしていた時のお話をしたい。

 私の主催するベリーダンスショウを観に来てくれた時、高齢者の父は言った。「ストリップダンサーみたいに綺麗!綺麗わぁ。」
 ストリップを観たことがなかった私は、しかし父の屈託ない笑顔を見て、純粋にショウを楽しんでくれたのだと感じた。

 私はダンサーとして、勉強のためストリップ劇場に行ってみた。「お疲れさまです!」と挨拶され、「いえ…客です…」と小さな声で答えて、おっちゃんしか居ない席の間に座る。こじんまりとしているが立派な劇場である。
 ここで私もショウができたら面白い演出ができるなぁ、とテンションがあがる。

 ダンサーはそれぞれに個性的で華やか、ショウの内容も盛りだくさんで見応えがあり、振り付けも趣向を凝らしていて楽しめた。何より、「舞台で踊りたい」という純粋な想いを持っているダンサーが多くいるように感じられ、観ていて感動する場面もあった。
 ストリップ劇場で女の子たちの股の間を眺めながら、考える。秘密の園を曝け出すことを表現として望むか、否か。

 私が教えているベリーダンスも、ある意味セックスそのもののような動きであり、エロティックな舞踊である。そして私も毎日舞台で踊ることを生業とできるのであれば、そうしたいとまで思っている。
 ストリップショウが違うのは、性器を曝け出す点である。私は表現方法としてそれを望まないから、自分はストリップダンサーにはならない、とうことが判った。というか、1人で納得した。

 しかし自分も踊り手のはしくれなので、ストリップダンサーたちが過酷な労働をこなしていることが気になった。長時間のハイヒールでのダンス、身体の冷え、ショウ自体に支払われる料金の安さ…

 ダンサーは肉体労働者である。ましてやこの手の風俗業もしかり。身体資本で働く人々への労働対価に疑問を感じずにはおれなかった。客のおじちゃんたちは、ダンサーの胸元にお札を捻り込んだり、怪しげな個室へいざなわれたりしていたが、恐らくそれだけでは不十分なほどに、ダンサーたちは肉体も精神も酷使しているようにみえた。

 ショウ後はダンサーたちがエントランスで観客1人1人に握手するサービスまでしてくれた。 
 「めっちゃ楽しかったです。素敵でした。勉強になりました。」私は1番可愛いダンサーの手を握った。
 そのダンサーの手は氷のように冷たかった。美しいライティングで気づかなかったが、目の下にはくっきりとしたクマがあった。「ちゃんと観てくださって嬉しかったです」とダンサーは笑顔で答えてくれた。肌荒れがひどく、栄養面の問題が気になった。

 踊りが好き、スポットライトを浴びて表現したい、などの気持ちが感じられるダンサーたちに会い、お互いに良いチャンスに恵まれることを祈った。そしてどうかお互いに元気に踊り続けることができるよう、祈るしかなかった。

 ストリップ劇場がなくなってしまった今、そこで働いていた人たちを支援することになり、ダンサーたちの行く末をまるでオカンのように心配している自分がいる。

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