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愛されすぎた白鳥
お洒落な服というのはいつ着ても暑かったり寒かったりする。
着るのにちょうどいい気温や天候というものがない。
今日もちょっと涼しいくらいだからこのシャツがぴったりなはず!と思って着たシャツが暑かった。暑いというか通気性があんまりないからジメジメした気候には合わなかったんだろうな。
通気性がないから暑い時は暑いのに、素材としては薄いから寒い時は寒い…。
お洒落は我慢とはよく言ったものだ。
今日の読書
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それでも、白鳥にキャンディーを与えたのは、それが番人にとっていちばん大切な物だったからでした。
そのすべてを白鳥に与えるのは、そして、白鳥がそれを受け入れるのを見るのは、番人にとっては、それだけで十分に幸せなことでした。何の見返りも期待しないというのは、まさに「無償の愛」と呼べるものです。
おそらく白鳥もそれが分かっていたからこそ、差し出されるがままに呑み込み続けていたのでしょう。やがて自らの死を招くことも知らずに、あるいは覚悟して。
小説っていうのは最初の一文に注目されがちだけど、最後の一文も重要なんだよ!という趣旨の本なんだけど、いろんな小説の作品紹介作品解説として楽しんでしまっている。
今日読んだのは小川洋子の「愛されすぎた白鳥」について。
「愛されすぎた白鳥」は読んだことはないけどこの解説を読んで、「無償の愛」というのは崇高なものなんかじゃなくて自分勝手で迷惑なものなのかもしれないと、夢から覚めたようだった。
「無償の愛」は素晴らしいもの、崇高なものだとされていて、それに疑いを持ったことはなかった。自分もそう思うというまでの積極的な考えがあったわけではなかったけど、そういうものなんだろうと思っていた。
でもそれが例えば無償の愛ではなくて、見返りを求めない大金だったらどうだろう。
なんの躊躇いも疑いも後ろめたさも感じず、見返りを求められない大金を素直に受け取れるものだろうか。
後で何かバチが当たるのではないか、騙されているのではないかという疑心暗鬼にもなるし、それとは別に、自分は何もしてないのに何も返せないのにと申し訳なさや罪悪感も抱くことだってある。
愛ではなく大金だったら受け取る側はそんなことを感じるのに、愛だったらすんなりと受け取れるなんてことがあるだろうか。
ドラマ化した新川帆立『元彼の遺言状』でも過剰な贈与を復讐の一貫として位置づけていた。
見返りを求めない過剰な贈与は受け取る側からしたら復讐にもなり得る加害なのだ。
見返りを求めない大金と同じく、無償の愛を受け取る側に疑心暗鬼や罪悪感があることだってある。受け取る側のそれがあまりにも大きくなりすぎると、愛するのも害になる。
なぜ見返りを求めない無償の愛を加害だとは思わなかったんだろう。
なぜ無償の愛は崇高とされてるんだろう。
それは愛する側の都合なのか愛される側の都合なのかどっちなんだろう。
番人は白鳥を愛しすぎ、白鳥は番人に愛されすぎた結果死んでしまって、加害者被害者になってしまったけど、当人同士がそれを害だと思ってないなら、無償の愛は加害ではないのだろうか。
今日からは「無償の愛」という言葉が狂気を孕んだ恐ろしいものにも見えてしまいそうだ。