わたしの中にはわたししか住めない
今日紹介する本は、奥田亜希子さんのデビューのきっかけとなったすばる文学賞受賞作『左目に映る星』です。
あらすじ
左目に乱視が入っている主人公早希子は、幼少期自分の右目と左目では見え方がちがうということに気づき、見え方が違うこと見方が違うことで世界のありようは簡単に変わってしまうことに衝撃を受ける。
以来、世界はひどく脆いもので自分と他者は同じものを見れないし、人は誰とも分かり合えない孤独な存在なのだという思いに絡め取られて行く。
小学生になり、同じ乱視の目を持つ吉住君と出会ったことでその孤独をわけあえたと思うものの、予期せぬ別れが早希子を襲い再び孤独の中に沈んで行く。
誰かとわかりあうということは勘違いなのか。
人の身体には、一人の人間しか住めない一つの星がそれぞれに入っているんだよ。他人っていうのは、ほかの星の生きものみたいなものだ。一つの星座をなしている、地上からは隣あって見える星だって、実は気が遠くなるほど離れているっていうじゃないか。他人といる喜びなんて、錯覚、勘違いでしかない。
p140
わたしの中にはわたししか住めない。
そこは孤独で寂しくて、誰がどんなことを感じているのかわからなくて知りようがなくて、わかったと思ってもわかりあえたと思っても客観的にそれを証明するすべはなく、ぜんぶわたしの中にあるものでしかないから、わかりあえたというこの感触もわたしの思い込み勘違いかもしれない。
孤独の形はそれぞれ違うから。
自分が抱える不安や孤独をわかって欲しい、孤独や不安をわかり合いたいわけあいたいから一緒にいたい。
そんな早希子の恋はとても利己的で幼いもののように思えたけど、決して否定できるものではない。間違ってない。
孤独の形も人それぞれ違うから、わけあうのも難しい。
孤独なら誰でもいいってわけじゃない。誰かと一緒にいられるならそれでいいってわけじゃない。
孤独の形が同じでなきゃわかりあえない。
でもその同じ形の孤独をわけあえたからといって本当にわかりあえたと言えるだろうか。
本当にわたしとあなたの孤独は同じ形だろうか。
お互いがお互いにそれを、わかちあいわかりあえた、と勘違いしているだけかもしれない。
勘違いは大事なコンパス。
きっと多分、わかりあえたという感情は勘違いだ。
でもそれは、勘違いじゃないかもしれないという可能性を多分に孕んだ勘違いで、
だからその勘違いをどれだけ共有できるかが大切で、その勘違いをできるだけ沢山共有できればそれでいいのだ。
人は孤独だと知っているからこそ、わかりあうとは勘違いであると知っているからこそ、
人は人と向き合うこと、そこで傷つくことを恐れずにいることができるのではないか。
最初から傷と諦めを引き受けているからこそ、傷つくことを恐れず、誰かとわかりあうという、本当にそこにあるのかもわからない暖かなものへと向かっていけるのではないか。
勘違いが念頭にあるからこそ、その人をまっすぐに見つめることができる。
自分の見方に傾きすぎないように人を見ることで、自分の思い込みが剥がされ、何度でも同じ人に出会い直すことだってできるかもしれない。
勘違いは、いつか本当に誰かと出会うため、誰かとわかりあうための役割を果たすコンパスのようだ。
でも、伝わらなかったならば、また言えばいい。いつだってどこでだって、何度だって言えばいいのだ。通じたという勘違いが得られるそのときまで。
p172