『池の女』にみる罪の意識
この話は、若い男が得たばかりの妻を置いて汽車で遠くに行くところから物語は始まる。男は一日でも妻と離れることが苦しくて悲しいといった様子で電報まで打って、妻への抱えきれない愛をとめどなく語る。息継ぎもなしにとめどなく言葉が溢れ、気分は高揚している。そんなにも妻との別れの辛さを感じながら彼の行く先は、以前から関係を持っていた女性のようである。
「一切過去の穢れから浄められなければなりません、まつたく葬り棄てなければなりません、さうして眞實の新しい生活を開拓しなければならないのです。そうわたしはあれにも、誓いを立てて来たのです。さうしてあなたは永久にわたし達のペトロン! 尊敬すべきペトロンです。」39頁。
愛する妻とのこれからの生活のため、彼女との関係を精算したいと思っているのだろう。男の独白は続き、いかに妻のことを愛しているか、どれほどこの女に感謝しているか、罪の意識からなのか語りは止まらない。女は最後にでもと男を求めるが、男は女を気ちがい呼ばわりする。彼女と別れた後もその影は男にまとわりつき、「そして暗い丘の、自分の宿の方へと力なく歩き出す。・・・」
大概人というのは薄情なものである。誰も自分が幸せを手にしたような時には、その幸せに見合うような人間かどうか、自分で内省し、そして恥ずかしいみっともない記憶は消し去ってしまいたいと思う。男にとって、愛する妻との純愛を追及するためには、4年一緒にいた女との関係は必要のないものとなってしまった。しかし、彼の罪の意識が、彼を汽車に乗って女のところへ向かわせ話し合うという方法を取らせた。罪の意識というのは究極的に自己満足なものである。浮気をした者が自分から浮気をしたと恋人に伝えるようなものである。彼らは罪の意識を持って、正直に話すことで誠実さを証明しようとするが、はなから正直ではなかったのだから今更正直になられたところで恋人にとっては辛いだけである。罪の意識というのはそれ自体利他的に聞こえるけれども、最終的には自分自身の気持ちをすっきりさせるだけの、オーガズムにすぎない。こうした正直のあり方については、内田百閒の『正直の徳について』を思い出すものだ。
もちろん「人」というのだがら、私もそんな薄情な人間の一人である。スウェーデンでの暮らしは二年を過ぎ、あらゆる雑念から離れて研究活動ができているのはあらゆるもの――良くも悪くも――置いてきたからであろう。その罪の意識は池になって海になって、霧を漂わせているのかもしれないが、私はそこを訪ねずにいる――。