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置かれた状況に耐える必要性がないって話
誰しも美味しい空気を吸いたいと思っている。
地球に生きている私たちは空気が無いと生きていけないし、どうせ吸うなら美味しい空気を吸いたい。
しかし美味しい空気を心から堪能できている人は、どのくらいの割合で地球上に存在しているだろうか。
自分に合わない環境に身を置く人は世の中に多く存在しているように思う。
生まれながら絶対的な存在だと思い込んでいる価値観の合わない親、謙遜することが美徳だとされる風潮、学校教育、謎に圧力をかけたがる採用面接.......etc
納得がいっていなかったり、居心地の悪さを感じる環境に身を置いていると、そこに適応できない自分自身にだけに問題点があると考えこむ人もいるだろう。
そういった環境に表面上だけでも適応するために、相手の望む言動をとり、noだと思うものをyesと答えたり、多数派に属することに必死になったり.......
窒息しそうにならないだろうか?
無論、公私を完全に区別し割り切ることで、適応していくことが可能な人も大勢いるであろう。
しかしそうでない人は?
自分の中の二面性に違和感を感じる人も中にはいるであろう。
そしてふとした瞬間、
「なぜ美味しくない空気を吸い続けるのだろう」「人生とは我慢する場所なのだろうか」
そういった疑問が湧いてくる。
私自身も過去に空気を吸うことを諦めたことがある。いや、それは空気ではなく、もはやヘリウムだった。不味すぎた。
もちろん人生楽しいことばかりではない。ポジティブな出来事もネガティブな出来事も両方を経験することがある。時には耐えて我慢すべき場面もあるのかもしれない。
しかし人生そのものが耐えることで必ず豊になるわけではない。
幸福を感じることで豊になるケースも人生では多く存在している。多くの人が、愛する人や物と過ごす時間は、心が満たされ豊かになることを経験しているはずだ。
耐え続けた果てに、必ず最高な幸せが約束されているのなら話は別だが、我慢の挙句に必ず幸せが待っているとは限らないのは誰もが知るところだろう。
約束されたものがないのに耐える必要があるのだろうか。
自分から美味しい空気を求めて、行動を起こすことは決して間違っていない。地球人であれば、誰もが生きるために美味しい空気を吸いたいに決まっている。
首都高の空気より、自然豊かな空気を吸いたいし、それを選択する権利がある。
簡単に言うなと思われるかもしれない。
もちろん私も散々そう思ってきた。
しかし本当に変えることができないだろうか。
NYに住む夢を次の日に叶えることが不可能なのは当然のこと。
情報収集、資金集め、物件探し、そもそも雇用があるかどうか.......果てしない程の解決すべき点があることを自覚して、その瞬間未来を諦めてしまう。
しかし今日1日を通して何か1つできることがないのか?ということに視点を当ててみるとどうだろうか。
今日は大まかな情報収集、明日以降は前日絞った情報をさらに掘り下げていき、来週以降は海外移住のサポートのプロに話を聞いてみる。
毎日1ずつ問題を解決していくことで、必ず理想的な未来に近づくことができる。
そんな悠長なこと言っていたらあっという間に歳をとってしまうと思う人もいるかもしれない。
しかし数日間で理想的な環境を手に入れられないことに絶望し、夢を手放すことに比べたら確実に前進していることになる。
今日の地球に魔法はないのだ。一瞬で全てを解決できる術はない。
なんでもいい。毎日少しの時間でも課題や問題点を向き合うことに意味がある。最初は小さな一歩でも、コツをつかめば毎日大きな一歩を歩むことがいずれできるようになるのだから。
どうせ困難に立ち向かうのなら、止まない豪雨の元での雨宿りよりも、
自分にとってよりよい環境を求めて力を使いたい。
美味しい空気を吸う選択は自分にしかできない。