吾輩は猫であ…りたかった
不惑、四十にして惑わず、五十にして天命を知る───。
日本における平均寿命が八十を越えている現在、人生のやっと半分を過ぎた程度で不惑を体現できる人は果たしてどのくらいいるのだろうか。
かくいう私も、あと少しで五十に手が届くというのに天命を知るどころか不惑すら…という具合である。
もしも時代を遡って孔子とコンタクトがとれるのならば、長寿という時代背景に鑑み、是非とも数年の猶予を設けていただきたく、いや、むしろ年齢設定の撤廃を嘆願したいものであるが、そもそも天命などと大それたものを知ろうとするより、日の当たる縁側で、猫のようにただぼんやりと無為に過ごす方がはるかに難しくなったように感じるのは、効率を重視し充実こそが正義という風潮、いわゆる空白を恐れることと無関係ではなさそうだ。
しかし、天命を知るには無為の時間にこそヒントが隠されている気がしてならない。
これは単に私がぼんやりしていたいが故の隠れ蓑とも言えるかもしれないが、猫への憧憬が多分に含まれているのも事実であり、記憶を辿れば、近所の飼い猫であった気高いシャムのコマ、はじめて飼ったチャトラの武蔵に始まり、チョビ、リリーとアルフ、ルルにキャス、私の人生の傍らには大概猫がいた。
その影響だろうか、遊びに来るたびリビングのソファで寝転んでいる姿を目撃していた母の知人から【眠り姫】呼ばわりされていた私はいつからか
①生まれ変わったら猫になる
②猫と話せるようになる
という夢を持つようになった。子どもの頃、将来の夢を聞かれても何一つこたえられなかった私がはじめて心に描いた夢は自分でもなかなか奇想天外だと思う。
だがしかし、来世は輪廻を脱することにしたいま(決定権は私にあるとして話を進めていくことをご了承願いたい)、①は選択肢として成立しなくなり②は思わぬ方向から叶えられることになったのである。
自閉症の次男を見ていると
「あ、この人の中には絶対猫が入っている」
と思うことがしばしばある。
初見の場所や人への警戒心は背毛をおっ立てるほどに半端ないが、一旦心を許すと距離感ゼロで纏わりついてくる。好きなお菓子やおもちゃが売っているお店は絶対に忘れない。
これは犬の要素と言えるかもしれないが、こういう状況における本人の集中力は恐ろしく、外的要素をことごとく遮断するため、呼んでもかなりの割合で戻ってはこないので、犬説はここでは一旦却下とする。
不意に宙を見、にまあーっとほほえみ、見えない何かを見つめる眼差しは、もはや人間の五感の域を超えている。
大きな音には不快を示し、好きなもので遊ぶその様は、ネズミを追うような執拗さが光る。突然スイッチが入って狂喜乱舞するのはきっと、どこからともなく流れ込んだまたたびの匂いを鋭敏に嗅ぎつけたからだと踏んでいる。
何の余韻も残さず素に戻るのも、猫と同じ。
そう考えると諸々の合点がいき、つまり、猫に何か意義的なものを求めるのが無粋なように、あなたはそこにいるだけでいいわ…と周囲に思わせてしまう謎の空気感を次男が意図せず醸し出すのも当然の帰結とも言える。
もちろん、意義的なものを見出すこともできる。日々、怒鳴り散らかしつつも分別のある私よりも(一応あるという前提で話を進めていくことをふたたびご了承願いたい)、のほほんと空を見つめるその佇まいのみで周りを自然と笑顔にさせる点において、遥かに世界平和に貢献していることは火を見るよりも明らかだ。
私はこの人生、ついぞ猫にはなれなかったが(ここからおお化けする可能性も捨て切れてはいない)、迷いながらも歩みを止めないこと、そして、誰かの、自分のつくった小さな枠に囚われないことの大切さは身にしみており、不惑の手触りくらいは感じられているのではないかと思っている。
とはいえもう五十目前だが…。
そう思えるようになったのは、本物の猫と中身に猫らしき何某かがいる次男のおかげであることは間違いない。まさにお猫様様である。
そんなことを寝入りばなにつらつらと思い浮かべていれば、傍らで寝ていた次男が「ワン」と寝言を言った。そこは是非とも「ニャア」であってほしかった。
人生のまだ道半ば、取り留めのない夢から大それた夢まで、これからあと幾つ思い描き、叶ってゆくのだろう。夢というものは大暴投の如く、想像を超えたところから叶えられるのもなかなか趣があって良いものだ。
だから私は願い続けよう。
猫のしあわせを。
猫のような子らのしあわせを。