勉強は「自分のためにする」ものじゃ、なかった。
「勉強しなさい!」という親の、想い
「ねえ、勉強ってなんのためにするの?」
もし、小さなこどもがあなたのところに来てこうきいたら、なんて答えるだろうか?
わたしは、ずっとわからなかった。テストのために覚えて、テストが終わったら忘れて、あんな意味ないこと、なんでみんな黙ってやってるの?と、心底理解できなかった。どうしても、勉強する意味が見つからない。だから、勉強って、ほんと嫌いだった。だから、長らく勉強することを辞めてしまった。
これってたぶん、私だけじゃないはずだ。勉強大好き!勉強する意味、わたしわかってます!なんて子、私の周りには少なくともいなかったんだが、みなさんの周りはどうだろう?勉強してる子でも、動機は「受験のために」とか、「親がうるさいから」とか、せいぜいそんなものなのでは。自分で自ら進んで「勉強楽しい」と言う(特に中学生以上の年齢の)子は日本では比較的少ないのではないかと思う。
そして、多くの親は、「勉強しなさい。あなたのために言っているのよ」と、呪文のように言う。この意味が、曖昧すぎてよくわからない。
私は現在34歳なので、同級生たちの子どもがどんどん大きくなっていて、小学生になる子もちらほら。インスタのストーリーを見ていると、子育て悩んでるんだな、大変そうだな、という投稿もたまに見る。
中学からの友人が、”また怒っちゃった・・どうしたら勉強してくれるんだろう・・”と、小学生になる息子に対する気持ちをインスタでつぶやいてるのを見て、興味深くて話を聞いてみたことがある。というのも、彼女だって学生の頃、勉強が大嫌いだったことを、私は知っているから。
「ちなみに、なんで勉強してほしいの?」ときくと、「だってやっぱりほら、他のおともだちはできるのに、うちの子だけできないのはかわいそうだし」「勉強はやっぱりしておいたほうがいいでしょう?」と言う。実に曖昧である。
「でもあんたも勉強してなかったよ笑」というと、「いや、そうなんだけどさぁ、やっぱり自分の子どもには勉強してほしいんだよね」と言うのだ。
はて、これは一体どんな現象なんだろうか、と考え込んだ。なぜ多くの親は、自分だって勉強してこなかったし大嫌いだったくせに、自分の子どもには勉強させたがるのだろう?
大人になってやっとわかる「勉強する意味」
皮肉なことに、多くの人は勉強する意味を、大人になってはじめて体感する。「やべーもっと勉強しとけばよかった」と、だいたいの大人が思うことになる。年齢を重ねると、背が高くなるだけでなく、「視座」が高くなる。そうすると、学校で勉強していたことが、私達のリアルな生活とつながっていることを、やっと理解する。
「数学って絶対意味ないと思ってたけど、数学できる人ってこういう分野で活躍できるのかよ・・」とか、「日本史とか世界史って、ただの暗記ものだと思ってたけど、いまこの瞬間起きてるニュースを理解するには歴史知らないと無理なんじゃん・・」とか、えーそれは早く知りたかったよ、ということばっかりだ。
私が理想だと思う教育は、もっと早くここに気付けるようにデザインされたものなのだが、現状日本ではまだそのような学習環境が多くの学校で提供されているかと言うと、残念ながらそうではない。もう何世代も、「あーあ、勉強しとけばよかったな」と、大人になって思う人が続出し続けている。
伝わらない、愛のメッセージ
例えば、大人だって「こんな意味ねえ会議に何時間使わせるんだよふざけんなよ」と思うことってある。そう思いながら出席する会議で、いいパフォーマンスなど発揮できるはずがない。我々人間は元来、「意味がないと信じるもの」を頑張れるようになど、つくられてはいないのである。
では、こどもたちの気持ちになってみたらどうか。もしくは、自分がこどもだったとき、学生だったときのことを思い出してみてほしい。
「あなたのために言ってるのよ?勉強しなさい!」と言われて、どう思うだろうか。「うわあ、お母さん、わたしのために言ってくれてほんと優しいな。勉強しよう!ルン♪」とは、たぶん、ならないだろう。「サインコサイン?織田信長?それらは私の人生に関係あるんですか?これ覚えて、なにになるんですか?」と半ばキレ気味で思っていることだろう。意味ないものを暗記しているほど暇じゃねえんだよと思っている。私は、そうだった。
しかし、親の方もべつに、意地悪で言っているわけではないのは、おそらくこどもらも理解している。親は子どもが大好きで、幸せになってほしくて言っている。人によっては、「自分のように後悔してほしくない・・!」という強い思いに駆られて、必死でこどもを追いかけ回して言っている。しかし、その思いは残念ながら伝わっていない。これを傍から見ていて、この愛のメッセージの一方通行は、どうやったら解消されるだろうか、とずっと思ってきた。そして、これまで多くの親御さんや生徒たちと対話をしながら、7年間講演活動をして全国まわりながら、私の個人的な結論にたどり着いた。
勉強は「誰かのために」するもの
結論、わたしは勉強って「自分のため」にするものじゃないと思っている。
だって、自分1人生きていくだけなら、よくわかんない数式や化学式も、昔の法律がどうだったかとか死んだ侍がどう戦ったかとか、そんな知識別に要らない。そんなん知らなくたって、生きていける。極論、ちっこい畑もって、じゃがいも作って一生じゃがいも食べて生きていくだけなら、やっぱり勉強する必要なんてない。
でも、もし、あなたにいつか子どもが生まれたとして、その赤ちゃんは、なぜだか、何もできない状態で生まれてくる。うんちもふけない。ごはんも自分で食べれない。服も着れないし歩けない。周りの大人が全部、やってあげないと生きられない。つまり、周りの大人に、経済力や知識、生きる力がないと、この子を守ることも、生かすことも出来ない。
そして、これはわたしにはまだこどもがいないので想像だけど、親というのは、我が子を、自分の命をかけてでも守りたいと思ったりするもんなんじゃないかなぁ、と思っている。
つまり、自分にいつか、命をかけてでも守りたいものができたときに、それを守れる力の土台になるのが、「生きた知識」で、それを得るためにするのが、「勉強」なんじゃないか、と思う。
だからやっぱり、勉強って自分のためにするんじゃない。「だれかのために」するものなんだと思う。
義務教育高校大学で、私達は多くの武器を手にする。そして社会に出たら、その知識とスキルをもって、何かを生み出したり、誰かを幸せにしたり楽させてあげたりできるものに使う。それに対して「ありがとう」の対価としてお金のやりとりがうまれる。それが、働くってことなんだと、私は思っている。
「勉強する」は、暗記じゃない。テストのために覚えて、テストが終わったら忘れちゃうものなんて、生きた知識とはいえない。それらは武器にも盾にもならない。いつか、守りたいものができたとき、誰かを助けてあげたいとき、社会の不条理に気づいたときにそれを解決したいと思ったときのために、備えておくためのものが勉強だ。
そのことを、お母さんやお父さんは、やっと気づいたんだと思うよ。守りたいものができたから。そんなふうに、いつも講演でこどもたちにはなしている。
これが、私なりの「なんのために勉強するのか?」という問いに対しての、個人的な見解だ
こどもたちは、大人が思っている以上に色々考えてる。意味や、目的を探してる。薄っぺらい言葉なんかじゃ、子どもたちの心は動かせない。そして彼らは、わたしたち大人を通して、社会とか、大人になるってなんなのかをじっと見てる。全てにちゃんと意味がある。ひとつひとつちゃんと、大人こそ、そこに向き合うべきなんだと思うのです。