【十字軍の城★放浪記】カラク城/ヨルダン
قلعة الكرك
しばらく間があいてしまいましたが、ゆるゆる再開していきます。
今回はカイロのシタデル、シリアのクラック・デ・シュバリエやマルカブ城と並ぶ、十字軍の代表的な城塞カラクです。
十字軍時代はルノー・ド・シャティヨンの居城で、映画『キングダム・オブ・ヘブン』で、ボードゥアン4世とサラディンの軍が激突した、あの舞台です。
ここはかなり巨大で遺跡の状態もよく、また付近の町にホテルもあるのでアクセスしやすく、見ごたえがあります。
海抜1000メートルの高台に立つ巨城で、とにかく巨大すぎてなかなか全景が収められません。古代からシリアとエジプトを結ぶ交通の要所で、12世紀半ばにはエルサレム王国の領土の一部として十字軍が奪取し、大々的に城を建造します。
これは十字軍時代の中東の城に典型的なエントランス構造なのですが、間口を極端に狭くし、入った後も角度をつけてジグザグに折れ曲がった細い回廊が続きます。
この構造だとどんな大軍も少人数に分散せざるを得ず、何度も折れ曲がる途中で、天井から熱した油を落としたり、弓を射かけたりするシカケがあちこちにありますので、攻撃に難しく、防ぐのに堅い構造となっています。
サラディンが1183年にこの城を攻めた時、エルサレム王女イザベラの結婚式をやっていたので、サラディンはその場所を確認してそこへの攻撃は避けたと言われています。この時の攻城戦はボードワン4世によって解かれ、休戦となりました。
翌1184年にもサラディンは攻囲戦を仕掛けましたが、4週間で断念。これは城が堅かったのもありますが、周辺からすぐに十字軍の援軍が駆けつけて、二重包囲される危険性が高かったので長期戦に持ち込めなかったからです。
カラク城がようやくイスラーム側の手に落ちるのは1188年11月、サラディンの弟アーディルとその息子の攻撃によるものです。
この時は今までとは事情が違っていました。前年1187年のヒッティーンの決戦でサラディン軍が大勝して、十字軍の兵力も武器も不足しており、城主のルノーも処刑されましたから、イスラーム側が兵力的に圧倒的に有利でした。その後はアイユーブ朝の宝庫として機能していたそうです。
こちらは十字軍時代の教会跡です。アールを描くアーチの石の積み方がわかります。現在は廃墟ですが、19世紀までは比較的良い状態で保存されていたようです。敷地面積は約225㎡で、城中のすべての兵士を収めることができたと言われています。(非常時には防空壕的な役割も?)
その後、この城砦はマムルーク朝のバイバルスの手に落ち、大幅な増築がなされます。
たとえばこちらは、マムルーク朝時代に築かれた外壁。城は大きく分けて、アンダー・ミドル・アッパーの3層に分かれているのですが、こちらはアンダーゾーンの守りを固くするもの。この外壁の様式は、中東の城砦の多くに見られます。
こちらはアッパーゾーン。マムルークの南の塔。1266~77年あたりに、バイバルスが初期十字軍の塔を移動・再建したものと思われます。これ以降、カラク城の中で最も堅固な砦となります。
後ろに見えている丘を拠点に、投石器(マンジャニーク)で攻撃されるのを防ぐための砦です(かつてサラディンもこの方法で攻撃しました)。
ちなみにこの丘、ウンム・サッラージャ(雪の母)と呼ばれていますが、語源はわかりません。
城の上から見たふもとの風景です。条件がよければ死海とヨルダン川が見えるそうです。カラクは古来キリスト教徒が多く(宗派はカトリックではなく東方教会だと思いますが)今でも4分の1ぐらいはキリスト教徒らしいです。(でも出会った人はみんなムスリムでした)
ふもとには多くのワーディ(涸れ川)があり、春には菜の花、アーモンド、すみれの花など、色とりどりの花が咲き乱れます。
場所はこのあたり。
イスラーム側が主要都市のダマスカスとカイロを行き来するには、エルサレムの西岸の海沿いを行くのが最短距離ですが、沿岸は十字軍が押さえていたので、内陸から行くにはカラク周辺を通過せざるを得ず、また、ダマスカスからメッカへの巡礼路にも当たっています。
そのため、イスラーム側は城主ルノーと安全協定を結んでいましたが、ルノーがたびたび協定を破って巡礼を襲ったのでサラディンが激怒し、後のヒッティーン決戦、エルサレム奪回の直接の原因となります。
今日の城砦はここまで~🌟
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