わたしにとっての「書くこと」

写真家の齋藤陽道さん。
齋藤さんはご夫婦でろう者だ。
齋藤さんの文章・ことばは、何というか、いつも私が使っている文章やことばより、もっと優しく心ある感じがして、好きだ。

その齋藤さんの『ことば以前の声』という文章を読んだ。
齋藤さんご夫婦の小さなお子さんが、今、ことばを覚え発する前のさまざまな表現、「自分の意思を身体で表現するようになった」話である。

「手話での話しかけ」が赤ちゃんの「手話の喃語」に繋がることなど、〝ろう者であるご夫婦と健常者であるお子さん方”との日常が書かれているのだけれど、私は初めて知ることが多く、齋藤さんの文を読むと
「聴こえないこと、それはきっと現実としてとても大変なこと。
なのに、こんなにも心かよう優しい時間が、静謐の中にあふれているって、
どんなだろう」と思うのだ。

私は静かなタイプの人間ではない。
だけど、自然の中にいる時の、風の音さえしない静けさが好きだ。
自分さえ黙っていれば、何の物音もしない光景。
たとえば、冬の冷えた夜の雪原、光る星空。

その中にいる時、私は「話さない」。
その静けさの中に、美しさの中に、ただ黙って居る。
だけど、心の中には
「ことば以前の声」がうずうずと動いていると感じるのだ。

ろう者である齋藤さんが、こう書いていた。

『思えば、ことばを発するとは、自分の内側にあるものを、外界に差し出すということであり、勇気そのものだ。誤解や軋轢を生むかもしれないという恐怖や、言いたいことをうまく言い表わすことばがみつからない難しさを感じながら、それでも表さずにはいられない衝動を誰しもが抱えている。
 私が私であるために、私自身が生き延びるために、内側でたぎるものをことばにして外界へ発する。それは、大人だけの特権ではないはずだ。
〜中略〜
 本来、ことばとは、一度、口に出せばもう取り返しのつかないものなのだ。子どもたちのことばもまた、どんな形であれ、一回限りのものとして、勇気をもって差し出されている。
 二人の話すことばは、まだ、大人が使うように一つの意味を表すようなしっかりとしたものではない。けれども、ことばの表面上の意味云々よりも、ことばにして外へ伝えようとする勇気をこそ見つめる。
ことばを使うこと、ことばに悩むこと。二人の内側からあふれ出ようとするものがあることをただ喜ぶ。
 そう考えながら、勇気に対してうなずく。』

そうなのだ。

ことばは、「言霊」。
嘘で良いわけがない。
正直しか、要らない。

私にとって、「書くこと」は、
あの静寂の冬空の下で心の内側にざわめく、
黙っていてもあふれ出してしまう「ことば以前の声」を、

「ことばにして正直に差し出すこと」だ。


音の聴こえない世界、音声を発せない世界に生きる人にとっての「ことば」は、私が思っているよりももっと切実で、大切で、かけがえのないものなのかもしれない。
理解しきれていない部分はあると思うが、その世界に生きる人の「ことば」に、尊敬と、魂を揺さぶられるような誠実さを感じた。

子どもの頃から本を読むことが好きで、中学から「書くこと」が自分の拠り所であった私は、「ことば」を大切にしているという自負があった。
でも、齋藤さんの、「ことば」と「表現」を『勇気を持って外界へ差し出す』という思いに触れて、
自分の「慣れた感じ」を恥じた。

これからまた新しく、「ことば」への誠実さを大切に、『書くこと』に向き合っていこうと思う。

〝自分の内側からあふれ出ようとするものがあることをただ喜びながら。”

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