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期待と人を傷つけること
人は、誰かを傷つけると同時に、自分もどこかで傷ついている。
自分の発した言葉、見せた態度。
無意識なことだったとしても、その自分自身の行動に、もしかしたら、相手は傷ついてしまっているのかもしれない。
私は人を傷つけた
あなたは、人を傷つけたことがあるだろうか?
「私はある。」
それは、人に期待され続け、歩むべき道を脱線した日のことだった。
そんな私をみて、私に期待をしていた人々は、色々な感情をぶつけ、私を歩むべき道へと戻そうとした。
そこには、多くの悲しみと怒りが混じり合っていた。
この出来事は、私の心の中に深い、深い傷として残っている。
自己本位的な自分
期待されている道を歩めない自分。
いや、それを歩むことをやめた自分は、自己本位的であったのだろうか。
私は、いまだに悩む。
私が決めたことは、きっと多くの人をたくさん傷つけた。
私の選択に人々が傷ついたということは、私が期待されていたという証なのであろう。
なのに、私はその道を外れた。
そんな周囲の期待を知りつつも、あえて、その期待に背くかのように、急にその道を脱線した私は自己本位的であったのだろうか。
期待されることへの罪悪感
実は私にとって彼らの期待は、私の心に重くのしかかっていた。
「期待に応えない」といけないという思いが、私を一生懸命に歩ませ、自分にどんどんとプレッシャーをかけてしまっていたようにも感じる。でも、苦しいなんて一言も言わなかった。
だからこそ、周囲の人々の期待は余計に膨らんだ。
それは、私が期待されるべく道を、うまくこなして行っているように見せたからだった。
ある意味で、私は器用な性格だったのかもしれない。
辛いときに、辛いと言わない。
できないことでも、簡単にできてしまうかのように見せてしまう。
そんな性格が、余計に期待を膨らませる要因になったことは間違いない。
でも、私の心は、どこかで止まっていた。
周囲の期待が高まれば高まるほど、私はその期待にそぐわない自分の感情が存在していていることに罪悪感が高まった。
緊張の糸が切れた日
プツンと、私の中で糸が切れる音がした。
それは、もう私にはどうにもできないような気持ちだった。
ずっと置いてけぼりだった私の心が、神経を研ぎ澄ませながら、誰かの期待を敏感に感じ取り行動選択をしようとしていた私を、止めた。
もう頑張らなくていいと思った。
でも、パンパンに膨らまし続けていた周囲の期待を裏切ってしまう恐怖は心の片隅にあった。
これは、自己本位的な行動選択なのであろうか?
そんなことを思った。
でも、期待で固められた道の先には、より大きな期待が待っている。そして、そこには、心をどこかに置いてきてしまった自分自身の姿が見えたのだった。
そんな未来でいいんだろうか。
人を傷つけない方法はあったのだろうか?
あの時の私に、誰かを傷つけない選択肢はあったのだろうか。
器用に期待という名の道を歩み、その器用さの故に、他者の期待を膨らまし続けてきた私は、不器用ながらに、人を傷つけるという選択をした。
もちろん、それを選択した私も、同じように傷ついてしまった。
でも、人は大なり小なり誰かを傷つけ、誰かから傷つけられる経験をして、成長していくのかもしれない。
だから、私はもう二度と同じ過ちはしたくないと心から願っている。
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