「〜として」生きることから距離を置く
女として。教師として。親として。
私たちは、よく自分自身の立場や、環境によって、「〜として」の振る舞いが求められることがある。その中で、私たちは世間が思う空気のような「〜として」の規範に従うように、行動選択やふるまいを変えていく。
しかし、「〜として」という規範は、どこで生まれ、どうして私たちは、その規範に縛られているように感じてしまうのか?
私は疑問で仕方がない。
そんなことを考えている私も「女性として」「元教師として」というフレームワークに固執してしまうことがある気がする。
教師としてのアンビバレンス
正直に言うと、ずっと私は自分が「先生」と呼ばれる立場に違和感を感じていた。
教師として着任したその日から、先生と呼ばれれば呼ばれるほど、それほど立派な存在ではないと思う自分自身の気持ちと周囲が私に注ぐ視線の差に違和感を覚えていた。
それと共に、当時の私は「先生」という称号を与えられ、子どもの集団を統率する権利が与えられたようにも感じた。
それには、非常に強い違和感を感じつつも、私は「教師」としての責務を果たすため、子供たちや授業と必死に向き合った。
当時の私は、自分の中に自然と思い浮かぶ「先生らしさ」という幻想を抱き、それに向かって努力をし続けていたようにも思える。
教師である以上、そんな「先生らしさ」を追求しなければならないという気持ちばかりが高まり、「自分らしさ」を「教師らしさ」に統合しようとしていた。
しかし、そのような思いに、私は苦しめられた。
私はどちらかと言えば、緩やかな指導を好み、熱血教師とは程遠い、「これが正しい!」と子供をリードするような指導は一切できなかったのだ。
もちろん私の緩やかさを好む生徒がいたことは確かだが、当時の私は、人情味溢れる、熱い先生の方が、子ども達を牽引するパワーがあると思っていた。
しかし、この私の考えはあくまでも幻想だったように感じる。
そんな幻想に当時の私は、思い悩んでいたのだった。
女性としての生き方
私は、よく女性としての生き方についても考えることがある。
「女性として」どのような生き方が、好ましいものだろうか?
きっと、この世の中には、いつまでもキャリアや夢を追い続けず、女性として結婚をし、子育てをすることを女性の美学と捉える考え方も存在するのかもしれない。
一方、女性としてのキャリアを追求し続けることを素敵であると考えている人だっているだろう。
しかし、このような二つの考え方に面した時、私はふと、このようなことを思うのだ。
結局どの考え方も「女性として」という女性のフレームワークに囚われてしまっているのではないかと・・・。
そんな風に思う私も、きっと「女性として」のフレームワークから離れられていない気もする。
「〜として」生きない選択をすることはできるのか?
これまでの私は、「教師として」「女性として」という、どこにも明記されていない、漠然とした、社会の規範を意識し、その幻想とも言える「〜として」と自分自身の現状との乖離に、苦しむことが多かった。
とはいえど、私たちは、この社会で生きている以上、「〜として」という社会的な役割を取り除くことはできない。
では、どうすれば「〜として」の世界から距離を置くことができるのだろうか?
きっと、それは、自分軸をしっかりと持つことなのだと考える。
ーーー自分軸ーーー
さて・・・
あなたの軸はどこですか?
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