遥か旅の記憶 1987.春⑦
バルセロナを後にして、私達は夜行列車でスペイン国境を通過してフランスのリヨンに入った。
1985.夏の夜行列車国境超えの時のようなハプニングはなく、
無事にリヨンに到着することができた。
①数珠つなぎはまだ続いていた
ラテンのノリはスペインまでと思っていたら、リヨンに着いた瞬間、日本語で「日本人ですか?」と声をかけられた。
リヨン大学で日本語の勉強をしているモロッコの若者だった。
モロッコ人の公用語はフランス語。彼がホテルの値段交渉や町の案内を買って出てくれた。
本当にラッキー。
マリオネット博物館なる所へ連れて行ってくれた。
リヨンは世界的に有名な人形劇の町らしい。知らなかった。
②グルメの街リヨン
旅の相方はとてもグルメな人だった。
卒業後の就職先も輸入食品の会社を選んだ程なので、ワインや食材にすごく興味があって、
フランスではグルメの町リヨンを訪れたい。と言ったのも彼女だった。
この旅での私達の食事は、
朝はカフェでパンとコーヒー。
昼は町の食堂でランチ。
このランチメニューにはワインが1本必ず付いている。私は飲めないないので水を1本買って、余ったワイン1本は彼女にあげる。
夜はスーパーや市場で買った食材を宿で部屋食。彼女は私があげたワインを1本飲むので、毎日2本のワインを飲んでいたことになる。
リヨンではどんな小さなレストランの安いランチも、ちゃんとフランス料理だった。
お肉も魚も旨味たっぷりのソースでソテーされている。
パンでお皿を拭きながら、まるで舐めたかのように一滴残らずソースを味わった。
さすがグルメの町リヨン。
③スイスの物価が高過ぎて泊まれる宿がない
フランスを後にしてスイスジュネーブに入った途端、私達の財布は急に無力になった。
スイスの物価が高いことはある程度覚悟していたが、実際スイスに入ってまずは宿探しとなった際、本当に高くて私たちの予算では泊まれる所がなかった。
これまでどおり宿に入って行っては一室あたりの値段を聞いて回ったが、告げられる値段は私達の予算の遥か遥か上だった。
どうしたものかと途方に暮れていると、「どうしたの?」と青年が声をかけて来た。
事情を説明すると、
自分が働いているカフェバーの上がホテルなので、安く泊まれるようオーナーに交渉してあげる。と言ってくれた。
4階のペントルームでバストイレ共同。エレベーターは無く階段の登り降りになるが破格だったので即決した。
これで寒空の野宿は免れた。
④ブルガリアの青年
その青年は昼は四つ星ホテルのレストランでアルバイトをして、夜はこのカフェバー働いている。
実は彼はブルガリア人で、亡命してスイスに来たという。
生活のために昼夜関係なく働いているそうだ。
そのカフェバーの従業員はほとんどが東欧国籍の人だった。
滞在中、「ホテルのレストランに来て」と言われたので、お世話になった手前いくらかかるかビクビクしながらもランチに行ってみた。
立派なホテルだったので、美味しい料理も値段が気になって味がしなかった。
いざ会計の時に財布をゴソゴソしていると、「サービスだよ!」と言ってくれた。
それならもっと味わえば良かった。
ごちそうさまでした。
⑤この宿の正体は?
この宿には不思議な点がいくつかあった。
まず、私達以外に泊り客はいないようだ。
2階と3階は客室のはずだが、トイレやシャワーといった泊まり客らしい生活音や気配がない。
その代わり、4階に上がってくる途中2、3階の部屋の灯りやシルエットがぼんやり見えるのだが、
なんだか怪しげで淫美な雰囲気なのだ。
一度だけ2階の部屋から出て来た女性と鉢合わせたが、もの凄くド派手な化粧にネグリジェのようなシースルーの服を着ていた。
よくわからないが、どうやらここは娼館か何かそういう類いの怪しげな場所らしいことを最後の方で理解した。
⑥自由を求めて
スイスで出会ったブルガリア人の青年は、私達がいる間も1日の休みもなく働いていた。
自由を求めて祖国を出ても、スイスで本当に自由を手に入れたかは私達にはわからない。
けれども当時のブルガリアはソ連の衛星国だった。祖国は彼にとっては何かしら耐え難い抑鬱状態にあったのだろう。
私たちはこの旅の西ヨーロッパ最後の国、ドイツへと向かった。