長崎異聞 10
一見では執務室と感じる居間に通される。
踏み込むと足首まで埋まりそうな絨毯の感触がする。種蒔き前の畑に踏み入れた気がする。その部屋に陸奥宗光は土足で入っていくが、醍醐にはそれに抵抗があり、卸して間もない草鞋を屋内履きとしている。
慣れようもない暮らし向きだ。
執務机に石油ランプが用意されており、日が落ちてからも残務が彼の背にのし掛かっているらしい。書類束が幾つも積み上がっている。
「いや岩崎君が上京していてな、彼の決済分までこちらに回ってくるのだ」
そう言いながら彼は葉巻を取り出して、机面でとんとんと慣らしていたが、それを小皿に戻した。醍醐の渋顔に気づいたのだろう。
「君にこの仕事を振るつもりはないよ。まずはユーリアの警固じゃ。今やこの男所帯にも剣の使い手は少なくなったものよ」
丸菱の前身は亀山社中、その大方の顔ぶれは長崎海軍伝習所に行き着く。かの坂本龍馬がその塾頭である。かつては列をなしていた武辺者はここでも肩身の狭い思いをしているのか。
「よいか、ユーリアの交渉場所はこの家かLe Angeの何処かじゃ。殊に紅毛人であれば先方に出向く必要がある。俥をつかうなら走ってゆめゆめ警固を怠るな」
そして彼は声を低くした。そして手を動かして耳を近づけるような仕草をする。岩崎が神奈川で交渉しておるのだ、英国人から船渠を購入すると早口でいった。副頭取の岩崎弥太郎が関東にいるのはそういうことらしい。
話題をすり替えた。
「来春にはまたこの港に清国から無頼な戦艦が入港してくる。儂はその阻止に紛争しておるが旗色悪し。清国の陰で糸を引く者がいる」
「してその者とは?」
「防府崩れであろうな。もしかすると大物が長崎に入りこんだかもしれん」
そして彼は暫く口を黙み、瞼を瞑り思案顔になる。
「桂小五郎、と名乗っていた長州藩士だ。手強いぞ、あれは」
深々と椅子に座って天井を仰いだ。
「龍馬が言っていたぞ、かの偉丈夫と土佐の藩邸で試合ったとな。3本取られて負けたそうだぞ。神道無念流を極めていてな、練兵館の塾頭だよ。そうそう近藤卿もな、彼には鯉口を切らなかったとよ」
まさかとは思う。
近藤勇卿とは直接の目通りは叶わない。狼藉を働きつつ京を闊歩していた浪士どもを霧散させた功績で、今は華族の一角となられた。
「手強いのは剣筋だけでないぞ。彼はな幕末時に捕縛を避けるために百姓になり下水溝も平気で泳ぎ渡った。女装して座敷から逃れたこともある。美丈夫でもあったからな、彼は。生き延びる執念には誰にも劣らぬ」
「ではご面識がおありで」
「ああ、儂も海軍伝習所出だ。その折にな」
先日の絡みついてきた不逞な奴ばらを思い出す。あれは士分への強請集りの類かと思っていたが。果たして狙いはユーリアなのかもしれぬ。
己が剣技が役立つ日が来るとは。
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