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武田作品解説シリーズ2「輪転」

2.輪転(2011年)

 まずこの作品には、致命的なミスがある。作品形式を思考する段階において、私自身があるミスをしてしまっており、それゆえ、この作品は正確性を欠いている。本来であれば、キリスト降誕からはるか未来の地球までを黙示録的に描く予定であったが、残念ながらその試みは失敗に終わってしまった。とは言え、全30編からなる「輪転」の全てが間違っているというわけではない。はるか過去から未来に向かって、人類は決まった周期のなかで成長と衰退を繰り返していく、というのが「輪転」の基本的な考えとなっているが、私がミスをしてしまったのは、この周期の取り方である。だから、問題なく描けている部分もあれば、まったく違う部分もある。
 しかし、たとえ決定的なミスによって作品そのものが破綻しているとしても、「輪転」がひとつの霊感のもとに作られていることに変わりはない。この詩もやはり、単なる思考的な意味読解をするのではなく、そこに込められたひとつひとつの象徴を丁寧にイメージし、そこから得られる感情に浸ってもらえたらと思う。そうでもしなければ、「輪転」は「頭がおかしい内容だ」の一言で片付けられてしまうだろう。
 だが「輪転」の持つ象徴を解いていくのは難しい。この詩はW.B.イェーツの詩やその神秘思想から影響を受けている。「輪転」における月が象徴するものは、イェーツのイメージと類似するところも多いだろう。だがイェーツからの影響は、あくまでも「輪転」の一部にすぎない。「輪転」の根底に流れているのは、私自身の神秘思想であり、それはもちろん古今東西の神秘学がこれまで述べてきたことよりも新しいものではないが、私はこの「輪転」において、自身の体験としての神秘学を表現できたと思っている。だからこそ、「輪転」の象徴は難しいと言わざるを得ない。だがとは言っても、この詩を作った当時の私が今以上に未熟であったことも確かであり、それゆえ、まだまだ「自身の言葉」としての詩とは言い難いところがある。特に後半は散文詩の形式を取っており、これは、単純に散文形式でなければ内容を書くことすらできなかっただけである。書き言葉よりも話し言葉のほうがうまく説明できることがあるように、散文は韻律詩よりも「簡単に」物事を説明することができる。だが決して、「簡単に」が「正確に」と結びつくわけではない。「輪転」の後半にはほんのかすかな予感が滲んではいるが、そこから「正確な」内容を汲み取るのは不可能かもしれない。どちらかといえばシュルレアリスム詩のようになっており、それはつまり、詩としての失敗を意味する(私はシュルレアリスム詩そのものを、失敗した神秘学としての詩だと思っている)。
 おそらく今ならば、もう一度正確に周期を取り直して、この「輪転」を書き直すことができる。以前よりもはるかにうまく作ることができるだろう。だが私は、「輪転」を作り直そうとは思わない。この未熟で未完の失敗作は、だからこそ「輪転」なのだ。それに、私の詩はどれも、「自由意志の獲得」をテーマとしており、つまり、表現方法は違ってもその目的は同じなのだ。だから、「輪転」を作り変えることには意味がない。新しい作品を作ることが、そのまま「輪転」の作り直しだと言えるだろう。
 私は「輪転」を、W.B.イェーツの霊性に捧げている。きっと「輪転」は笑われているだろうが、それがこの先、どのように成長していくかを、楽しみにしていてほしいと思っている。

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