死の感覚と生きる意味

どうも、さわかぜです。ブログにもツイッターにも載せないような思ったことをただ書くためだけにnote開設しました。

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はじめの投稿なのに『死』というテーマで書きます。

以下、本文です

最近身近にいた実家の猫ちゃんが亡くなってしまった。

目の前で身近に生きていたものの「死」を目の当たりにすることはそう多くはない。

だからその度、生きて触れ合っていた存在がそこから消えるということに実感がわかない。

僕は祖母が亡くなるその日の朝に不思議な夢を見た。

いつ亡くなるかわからないのにその日に限ってだ。

その夢では既に亡くなっていたおじいちゃんが川の向こう側にいた。

そしておばあちゃんはそのおじいちゃんを探している様子なのだが、おばあちゃんにはそれが見えていない様子なのだ。

僕にはその二人の姿が見えていた。

だから、おばあちゃんに手を差し伸べ川を渡っておじいちゃんに会わせてあげたのだ。

そうすると二人揃って「ありがとう」と言い白い光に包まれる。

その夢から目覚めた僕は大粒の涙をこぼしていた。

なにかの胸騒ぎを覚えつつも母に夢の内容を伝えて仕事へ行く。

そうすると12時頃、母からの着信が。

「やっぱり」

電話に出る前に何かを悟った。

急いでそのままタクシーへ病院へと向かう。

親戚皆が集まっていた。

僕を待ってくれていたのか到着してまもなくおばあちゃんは亡くなってしまった。

おばあちゃんのことがとても大好きだった僕はとても悲しい気持ちとともに、不思議な気持ちになった。

つい数ヶ月前まで普通に一緒にご飯を食べて笑顔でいた人がパタッといなくなったのだ。

しかも当日に夢にまで出てくれて。おじいちゃんが僕という媒介を通じておばあちゃんを迎えにきたのかなとか色々考えた。

死ぬってその後どうなるんだろう。ちゃんと向こうで仲良く暮らせてるのか。はたまた生まれ変わりとかいうやつになるのだろうか。

ペットも家族だ。

実家には猫ちゃんがたくさんいた。猫好きな母は可哀想な猫ちゃんを貰ったり拾ったりして多いときには7匹いた。

それが今は2匹になってしまった。

猫でも家族だから当然悲しく辛い。

ただ、そうやって死を目の当たりすると何か不思議な気持ちも沸いてくる。

僕もいつかは死ぬ。

この猫ちゃんが死んでも僕は明日も生きてる。

でもいつ死ぬかなんてわからない。

僕は常に色々考えてしまうほうでよく「なんのために生きてるんだろか」

なんてことを考える。

こんなことを考えるのは人間くらいなものだろう。

最近通っている予備校の老講師は授業中に人生論を語る面白い人なんだけども先日こんなことを言っていた。

講師「老人ホームで講演をしたあとに一人のおばあさんにこう言われた」

おばあさん「私なんて生きてるだけて迷惑なもんなんだから生きてる意味なんてあるのかね?」

講師「皆ならなんて答える?」

その答えはその老講師からは出なかったが、その後こんな話をした。

「物には生まれた時点で意味が発生する。椅子は座るため。机はものを置くため。」

「じゃあ人間はどうだろう?人間は生まれたあとから意味を求める。探す。」

「でも果たして意味なんてあると思うかい?」

これはどこかの偉い人のなんちゃら論みたいなことを言っていたけどそんなことは覚えていない。

ただ、人間が生まれた意味なんてたしかにあるのかわからないし、意味なんて自分じゃないと見つけられないものだと思った。

だけど亡くなってしまったおばあちゃん。家族の猫ちゃんは間違いなく僕の思い出となり血となり肉となっているはずだ。

生きてることに多分意味なんてない。

だけど他者の中に意味をもたらすことはできるのかもしれない。そういう人間になって死にたい。

さわかぜ


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