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人生も格ゲーも選択の連続なんだ

コロナに入ってからというもの、リモートワーカーとして一日にほとんどの時間をスタバかコメダで過ごしている。

業務が終わってから適当にご飯を済ませて家に帰宅してゲーム三昧なので日々の彩はあまりない。

スタバの無料wi-fiに接続すると、その季節限定の商品が強制的にモニター上に表示され、もうじき桜の季節ということでSAKURAフラペチーノが画面を彩っていた。

「もうそんな季節か..」

季節の変わり目に何度言ったかわからない言葉が浮かんできた。夏はセミの鳴く声、秋は月見バーガーのCM、冬は有線で流れるマライアキャリーがその対象だ。

昨年、桜が満開の時期に大切な人との別れを経験してしまった。これから桜は、悲しい思い出を呼び起こすトリガーになってしまうかもしれない。

そんなのはいやだ。桜は始まりを告げる花であるべきで別れを連想する花であるべきではない。

原因は完全に私にある。相手の気持ちを考慮せず、自分のやりたいことを最優先に生きてきた結果だ。

例えば格闘ゲームでは、相手の取りたい行動を逆手にとってそれを自分が有利になるようにプレイするのが肯定されるし、勝つためにはその「読み合い」の上を行くのが大事なことだ。

しかし、人間関係や共同生活などにおいては相手の気持ちを読み取り、相手と自分がなるべく負けない選択、いわゆる「引き分け」の択や時には「勝ちを譲る」選択だって取る必要がある。

格ゲーで如何に「自分が勝つ」ということに執着してきた結果、実生活においても「自分さえよければいい」という精神になっていたのかもしれない。
対人関係で必要なものは、相互理解であって、どちらか一方が勝つようなゼロサムゲームになってはならない。

そんな当たり前のことを意識できていなかった私が独りになるのは当然の結果かもしれない。

一方で仮に家族となって子供を作って、という人生もなかなかに想像しがたい。
大好きなゲームを完全に辞めることはできないと思うし、他者を最優先に生きていくことも考えづらい。

でも、いつか「自分が勇者」である人生から、魔法使いだったり、僧侶だったりで主人公(例えば子供)をサポートをする日が来ることもどこかでわかっている。

「好きなこと」「やりたいこと」を優先してしまったせいで、そうしたサポート役に徹することを逃してしまったのかもしれない。

もちろん、仕事も家庭もゲーム(趣味)もうまく回して成果を出してる人もたくさんいると思うし、実際にいるのも知っている。

私はそんな高度な社会生活を送れるような能力がなかっただけだし、何よりも他者への思いやりが欠けていた。

人は「選択しなかった、あるいはできなかった行動」を憂い悩む生き物とはよく聞くけどそれは本当かもしれない。

成しえなかった夢や恋の歌があふれかえっているのをそれが裏付けている。

またも、ゲーム話になってしまい恐縮だが、小学生の時に夢中になってプレイしていたパワフルクンポケットというゲームがあった。

サクセスという野球選手を育てるモードがあって、高球生活をシミュレーションしながら物語は進んでいくのだが、、当時の子供向けゲームではありえないような、重く、ぶっ飛んだ話も多かった。

甲子園決勝で親友が車に轢かれたり、マネージャーが実は悪の組織のスパイでその組織に銃殺されたりなど。(これで全年齢対象だった)

そんな数あるストーリーの中で、あすかという幼馴染を彼女にした際のイベントがあった。
あすかは心臓が弱いという大きな持病を抱えているのだが、その生命に関わる緊急手術が主人公の甲子園決勝の日に起こってしまうイベントがあるのだ。

そこで主人公は問われる。

1,彼女の元に駆けつける
2,このまま甲子園決勝に出場する

結果から言うと、1を選んだら彼女は助かることになるが、甲子園決勝でチームは負けてしまう。
2を選んだら、甲子園の試合出るため優勝を手にする可能性を得るが、彼女は手術に失敗して亡くなってしまう。

1なら彼女を結婚して子供にも恵まれるわけだが、
「あの時甲子園決勝に出ていたら..」と後悔することになり
2なら当然、「あの時駆けつけていたら」と彼女の墓石の前で後悔することになる。
※一応2で甲子園優勝&ドラフト1位指名で助かるルートもあるようだが。

子供ながらにこのエピソードは心に深く刻まれることになった。そうやって選択しなかった、経験することのできなかった体験を憂うものなんだろうかと。

このゲーム中のエピソードも、よくある巷にあふれた失恋ソングも今なら共感できるし、そんな経験を経て大人になっていっているのかもしれない。

今この時だけを切り取って悲観せず、選んだ道が正しかったと信じて過ごしていきたい。

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