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澤村の自己紹介 "Connecting the dots" 高校生編 笑われても失ってはいけないこと

第一志望校に合格し、ワクワクしながら入学を迎えた。附中は本当に楽しく充実感があり、生涯の友を得ることができた。そんな完全ホームの中から、まずは入学式で完全アウェイに放り込まれる。慶應義塾高校(以下塾高)は内部進学者も多いため、一般入試組は最初は肩身の狭い思いをすることが多い。もれなく自分もその一人であり、入学式後何日かはモヤモヤしていた。硬式野球部の練習に参加することで、知り合いは増えていった。そしてそれと同時にとんでもない環境に来たしまったなと感じた。勉学でもスポーツでも常に劣等感を感じるようになった。


燃え尽き症候群

中学受験のリベンジをしたことに満足感を得ていた。それまでハードに勉強をしてきたせいで、「もう勉強はいいかな」と感じていた。日本の受験の仕組みや学校の雰囲気のせいにすることは簡単だが、結局このようなマインドは全て自分が引き起こしていたと思う。中学時代は授業で寝ることなどなかったが、自分の体力の無さや生活への律し方が足りないこともあり、多くの授業で寝るようになってしまった。テストへは「いかに最小の労力で最大の成果を出せるか」しか考えていなかった。とてももったいない時間の使い方だった(そういう考え方も大事ではあるが…)。このマインドは大学に入ってもあまり変わらず、社会人になってから多くの苦難の原因となったと思う。ただ本当に人生が壊れるようなトラブルには有難いことに見舞われてないし、ようやく真のスイッチが入ってくるようになったと思うと全てが繋がってくる。きっとそれぞれの出来事は最も相応しい瞬間に起こる。そう思う方が日々精神的に安定する気がする。

何事においても最もふさわしい時期があり この世の中のすべてのことには時がある。

(旧約聖書「コヘレトの言葉」第三章一節-八節。岡部改訳)


組織マネージメント 人を大切にするとは?

夢であったグレーのユニフォームを着るために硬式野球部に入部した。2023年の夏に甲子園で優勝したので、多くの方に塾高野球部は認知されるようになった。チームの在り方は今と大きく変わらないとは思うが、20年前の当時は神奈川県でベスト8に入るぐらいだったと思う。一個上の先輩方から推薦制度が始まり、全国から野球で実績を残した選手が入学してきている頃だった。こ一般入試組を合わせて、3学年で部員は120人。世間知らずの自分はその選手たちのレベルの高さと覚悟に驚いた。自分は1年後にチームがセンバツに行くなんて夢にも思っていなかったが、きっと同期の彼らは横浜高校や東海大相模に勝つ覚悟を当時から持っていたと思う。自分の認識と覚悟の甘さが恥ずかしくなる。ただ高校野球も含めその内部事情を全て把握していたら、逆にあの環境には飛び込めなかったのかもしれない。無知というのは時として強さにもなり得る。とにかく必死についていくしかなかった。全体練習で主力組に入ることなどほとんどなかったので、朝や全体練習後の自主練を多くするしかなかった。3年間で背番号を貰えたのは1回だけ。でもこの1回が自分の人生を支えている部分がある。どの大会もスタンドから応援して、野球をやっていたとは言い難い自分が、ここで語れるような充実感を得られたのには以下の要因がある。

チームの一員だと体感

昨年の夏も話題になったが、当時は上田監督がチームを率いていた。選手は「上田さん」と呼んでいたので、ここでも上田さんと呼ばせていただく。もちろん上田さんは大会で勝つためにチーム運営をしていくのだが、試合に出場できないマイナー(2軍)の選手たちの心情もすごく大切にしてくれた。マイナー戦を多く組んでくれたり、大会が終わればメンバーを多く入れ替えたり、全体練習でもマイナーの選手が退屈しないように様々に工夫していた。また夏の大会メンバーに入れず引退が決まっても、大会に向けて相手チームの研究など役割が与えられた。また大学生コーチの数も多かったので、主力でなくても大人によく声をかけてもらえた。大人の目や声が届かない部員はいなかった。このチームマネージメントは自分が部員の多い中学校で指導者になった今、ものすごく生かされている。自分は3年間ほぼスタンドにいてもチームへの所属感があったし、チームで目標を達成する素晴らしさを学んだ。そしてこの素晴らしさを伝えるために、ここまで部活の顧問をしてきた。

正しい厳しさ

"Enjoy Baseball"という言葉だけが一人歩きしてイメージを作りがちだが、本気で甲子園で勝つことを目指していたチームなので、当然日々の練習も競争も厳しい。甘い考えでは競争を勝ち抜くことはできないし、苦しいことや悔しいこともたくさんある。華やかな舞台の影には、多くの悔し涙がある。光が強いほど、影も濃くなる。ただそういう厳しさの中でも、成長に伴走し見守ってくれる大人が常にいた。叱ることや厳しい措置をとることが難しい最近の教育現場だが、人の真の成長は厳しさがなければ生まれてこないと確信している。厳しさとは大声で怒鳴りつけることや不合理なルールを押し付けることではない。この厳しさを履き違えないように、日々教員として試行錯誤しているし、きっとこれは一生続くことだ。厳しさとは言葉で生み出すものか?環境で生み出していくものか?考え続けることが大事だ。

文学部を選んで笑われる

部活の話が長くなったが、勉学面で何もやらなかったかと言えばそういうわけでもない。塾高はある程度成績をとらないと、有無を言わせず数字でバッサリと留年させられる。決して良くはなかったが、一応留年には全く引っかからない成績は取ってきた。そんな3年間で最も好奇心を持って取り組んだのが卒業研究である。中学時代のTOFYと似ているが、好きな教科を選び、自分が探求したいテーマで論文を書くのが卒業研究であった。私は社会を選択し、当時読んでいたこの本から探究を決めた。

私は先祖が龍馬と一緒に脱藩し、海援隊だったと祖父から聞かされていた。一応本家は高知城のすぐ近くで眼科をやっているということで、中1の時の家族旅行で行ったこともある。歴史好きなのとそんな縁もあり、坂本龍馬に大変な関心があった。最近は陰謀論などと言われてしまうが、歴史が勝者のサーガである以上必ず裏側はある。部活をやりながらもメンターのところには毎週通っていたので、その中でたくさんこういった話はしていた。おかげで世の中を見る目は鍛えられたと思う。
対話を重ねる中で、自分もメンターのような教育者になりたいと思うようになっていった。自分の興味関心を生かしながら教育者になるには、文学部しかないと思った。周りの友人たちからは「慶應だったら経済でしょ」とか「特にやりたいこともないから、一番潰しがきく法学部政治かな」などといった声を耳にしたが、そういった学部には全く関心がなかったので、自分はブレなかった。卒業式の日に担任からクラス全員の学部が発表された。「澤村、文学部」と言われるとほぼ全員から笑われた。「文学部出て何するんだよ」とか「女子が多いからだろ」などと言われたことを鮮明に覚えている。ブランド志向の世界とはこういうものなんだなと感じた。ランドセルを選ぶ時からそうだが、自分は人生が世間の圧で決まってしまうのが嫌なんだと思う。決してあえて異なろうとしているわけではないのだが、直感を信じてきたことを全く後悔していない。


高校時代をポジティブに振り返ることがなかなかできずにいたが、やっと受容できるようになってきた。歳を取るとはこういうことなのか。教員をしていると、子どもが人間として右肩上がりに成長すると考えている保護者は多い気がする。当時の自分もそう考えていたかもしれない。人間の成長とは螺旋階段のようなのか、それとも株価のようなのか、考えさせられる。そもそも人間の成長曲線はそんなグラフ化などはできないのだが。こうして振り返っていると、人生で一貫している幹の部分と、それに加わる枝葉の部分が手に取るように分かって楽しい。やはり「自分を知る」ということが最も大切なことの一つだ。


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