見出し画像

夫婦23年♡ふたりの日常③......子どもがいないこと


子どもがいないこと、、、うん、私たち夫婦に子どもがいない。ニャンコ2匹はいる(笑)

もともと子どもが好きじゃなかった、、、そんなわけではなくて、どちらかというと大好きな方だったと思う。特に、赤ちゃんの、あの生まれたての生が放つ純粋さ、柔らかさ、可愛らしさはたまらなく好きだ。

私たちには決めていたことがあって、『自然にできないのであれば、それはそれでいい』ということ。33歳を過ぎたあたりから、子どもを意識し始めるようになった。

40歳を過ぎたあたりから精神的にもいろいろありジタバタし始め(笑)、二人の体のことを病院で調べたけれど、きちんと排卵もあり、精子も元気だった。

若い頃にふたりで決めた『自然にできないのであれば、それはそれでいい』、『自然に授かりたい』、、その気持ちも揺らぎだし、体外受精も考えたけれど、、、そこまでして本当に欲しいのかという想いとの葛藤があった。


*~*~*~*~*~*~*

ターニングポイントは、私が学んでいた心理学の先生のFB投稿で、出来事を『事実と解釈に分ける』というお話。

それは『今日はお酒を飲まなかった』は事実じゃないよ〜というお話で、私はそれを読んだ時、え、、、それって事実じゃないの!とびっくりしたのだ。実際には『ウーロン茶を飲んだ。』それが事実なんだよと書いてあって、なんとなく分かったような分からないような感じだったので、自分が腑に落ちるまで考えてみたのだ。

例えばお酒を飲むことが全く頭にない人はこの『今日はお酒を飲まなかった』という思いは出てこない。だから『今日はお酒を飲まなかった』と思う人は、きっと頭の中でお酒を意識していた人だということ。飲みたいけど、今日は飲まずにいられた、、、など。だからそれはこの人の頭の中に浮かんだストーリーの一部で、事実は実際にした『ウーロン茶を飲んだ』ということ。

私はこのことをちゃんと腑に落としたくて、自分ごととして考えられることを出してみた。それは『わたしは子どもがいない』ということ。これの本当の事実って何?って。事実は目の前に在ること、、実際にしたこと、、、そう思った時、事実は、、、、

『私がいて、彼(夫)がいる』

それだけだった。この事実のシンプルさ気づいた時、私は唖然となってものすごーく驚いたのだ。本当にそうだった。でもそこに『子供がほしい』『子供がいない』その思いが生まれ、周りの人の『子供がいないの?なぜ(かわいそう)』という思いを暗に感じたり、社会の『子供がいるのが普通』『親世代に孫を見せるのが親孝行』『女性としての機能が果たせていない』とか、、そういった事実ではない信念、思いにふれて、私の中で膨れ上がり、子供いない、さみしい、申し訳ない、女性としての機能を果たしていないストーリーが出来上がっていたのだ。

きっとこのシンプルな事実に留まり続けるのは、たくさんの信念や思いが溢れるこの世界で大変なことかもしれない。

私もこの世紀の大発見!に気がついても、その後2年くらいはたくさんの感情が出てきていた。特に一番辛かったのは『夫に子供をもたせてあげれない』申し訳なさだった。

夫が愛ネコをタカイタカーイみたいに、両手を持ち上げて猫のミリを軽くふわっと浮かすことがある。その動作をするのを見ると、この人はいいパパになるだろうなと感じて、胸がきゅっとなる。だけど、夫は一度も「子供が欲しい」と言ったことがなく、私が「欲しくない?」と聞いても、「いたらいたらでいいし、いなかったらいなくていい」という返事をするだけなのだ。20代の初めの頃は「ふたりの子どもがいたら可愛いかもね」という話はしたことがあるから、嫌いなわけでもない。だから多分私を傷つけないために、言わないでいてくれているのかもしれない。またそれ以上に彼は、私たちの今、つまり『私と彼がいる』というシンプルな事実を受け入れてしまっているのだろう。

彼のそんな見えない優しさや愛情に触れて、私はもうこの優しさに委ねてもいいのかもしれない、、、それくらいに私は一緒にいたい、いてもいいと思えるくらいに大きな存在なのかもしれない、そんな気持ちを抱くようになっていった。

こうして徐々に『子供のいないさみしいふたり』という自分が自分につけたレッテルやストーリー、それに伴う寂しさや悲しさ、やるせなさを味わいながらも、

『ふたりでいる楽しさ、喜び』に目を向け、ふたりで過ごす時間の大切さ、限られた生の中で生きている自分たちの時間をもっと自分を喜ばすために生きていきたいと思い始めて、私たちは、自分を楽しみ始めた。

つまり、自分を生き始めたのだ。

すると、目に入る景色が違ってきた。自分の興味ややりたいことにもっと忠実になり、友達と過ごす時間を愛し、旅行に行くようになった。

そして今でも子供や赤ちゃんが好きだ。友人の赤ちゃんを抱っこしたり、あやしたりもする。その時間をとても楽しんでいる。赤ちゃんがいる友達の人生をともに楽しんでいる。不思議なことなのだが、私の中で、誰の赤ちゃんという境目はない。ただ、ただ、目の前の愛おしい、輝くばかりの生が愛おしくてたまらないのだ。

それはきっと赤ちゃんが私にくれた魔法だと思う。人類の赤ちゃんが可愛いと思うだけでなく、かつて赤ちゃんだった、目の前の生命が、今の形として現れている、、それだけで素晴らしいことだなと思えるのだ。


そして私は今、『わたしがいて、かれがいる』その幸せな事実を生き始めている。
時に『子供がいない』ストーリーの中で、胸がきゅっとなる感覚を味わいながら、その自分ごと、愛し始めている。

それは排除するべき感覚ではなく、『子供がいるというストーリー』で私が私を幸せにしたかったストーリーの残り香。

その残り香は時に甘く、時に切ないけれど、

わたしがわたしを幸せにしたかった、その切ないまでの私への愛情をありがたく、尊いものと思うから。


*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~*~
最後までお読みいただき、ありがとうございます♪

ご興味がありましたら、下記も読んでみてくださいね♪
詩のブログ→http://junesawada.jugem.jp/
心理セラピストブログ→https://ameblo.jp/therapyjune



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?