◇3. 家庭訪問は流れに任せて
トラウマ級の体験から始まったBOOK STARTの仕事。
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次第に知らない人の家のインターフォンを押すことも怖くなくなっていった。家にいてくれればラッキー、中に入れてもらえれば最高、インターフォンに反応がなくとも怒鳴られさえしなければまったく問題なし!と思えるぐらいにはなっていった。
驚いたのは、ほとんどのお宅でハガキの存在を忘れていたり、気づいてもいなかった場合でも、家に居さえすればたいていは中に通してくれたことだ。「散らかってるけど、コーヒーか紅茶どちらが良い?」といって、小さな赤ちゃんを抱きながらドアを開けて招き入れてくれる人は何人もいた。
ときには、わたしが来ることをよく覚えていて、しっかり準備していてくれた人々もいる。あるご家庭では「待っていたんですよ!どうぞどうぞ!!」と大歓迎されリビングに通された。ソファーにどうぞと言われるがままに中に入っていくと、ソファ前の巨大なテレビから外国語のドラマが流れていた。大音量でセリフが流れるのを聞きながらテーブルに目をやると、たくさんのお菓子とコーヒーカップがいくつも揃えられていた。
「あなた、てっきりスカーフ着けてくるんだと思っていたんだけど!」
温かいコーヒーの入った銀のポットを持ってきた女性がわたしににこやかに話しかける。
スカーフ…?とぽかんとしていると、女性は続けてこう言った。
「あなたの名前ね、アラビア語にも同じ名前があって。コーランの一節という意味もあるの知らなかった?だからてっきりイスラム教徒の女性が来るんだと思っていたんだけど、ドアを開けたら全然違う、東アジアの女性(=わたし)が立っていたもんだから、もうびっくりしちゃった!」
妹だというもう一人の女性の方を見ながら、その女性は吹きだしながら大笑いした。
女性たちはアラビア語のような言葉で笑いながら少し話した後、またわたしの方を向いて、テーブルのケーキやお菓子を遠慮なく食べるように言った。
目の前にはメロドラマとその音楽がまだ大音量で流れている。女性たちは一向に気にする気配もなくしゃべりつづけながら、2人の小さな子どもたちを抱っこしたり、お菓子を食べさせたりしている。女性たちはソファーにも座らないし、お菓子にも手を出さない。2人とも床に座ったままなので、わたし一人だけが高座に座ってお菓子を食べるという変な構図になっていた。
せっかくなのでコーヒーとお菓子を少しいただいたあと、持ってきた絵本をいくつか黄色いバッグから取り出して見せる。自分が図書館から来たこと、この地域の人は国のあるプロジェクトに選ばれたので、絵本を届けに来たんですよとまず話す。このお宅にはもうすぐ1歳になる双子の女の子がいたので、バッグをふたつ持ってきたよと言うと、本は場所を取るから1冊ずつでかまわない、ひとつは持って帰ってくれて良いとのこと。
しばらくすると、双子の女の子のひとりが、わたしに興味をもってくれたようで、そうっと近づいてきた。絵本を開き、一緒に眺める。ひざに乗せても大丈夫ですかとたずね、彼女を抱き上げて絵本を一緒に眺めた。女の子の母親は、「あら~、あなたのことすごく気に入ったみたいね!」と言いながら、実は双子のもうひとりの女の子の方があなたと同じ名前なのよと言って、また大笑いしていた。とにかく明るい人だ。
せっかく家の中に入れてもらったのだし、今日は時間もある。女性たちは明るく話しやすいし、準備してきたことをたくさん話さなくちゃと思いつつも、世間話をなかなか切り上げられない。どこから来たの?どうしてデンマークにいるの?という、少し気ごころが知れると特に外国人同士そんな会話になることもあるけれど、この女性たちともそんな話をひとしきりしながら、デンマークの冬って暗いよね、寒いよね、何でも高いよねぇ~と言い合った。
20分ぐらい経っただろうか。さすがにこれはまずい、ちゃんと仕事せねばと思ったとき、玄関から男の子が入ってきた。どうやら女の子たちのお兄ちゃんで小学校から帰宅したらしい。そこで改めてわたしは自分が持ってきた絵本について女性たちに話し始めると、女性たちはデンマーク語の本はあまり読めないのだという。小学生のお兄ちゃんに見せておいてくれたら、この子が妹たちに読んでくれるからと。アラビア語の絵本も少しだけど近くの図書館に置いてあることや、他館にはもっとたくさんあるから借りたければカウンターで予約するから来てねと伝えると、あぁそうなんですねと、さっきまでの会話とは随分違った静かなトーンで返事が返ってきた。
小学生のお兄ちゃんは、デンマーク語で自分がどのぐらい上手に読めるかを披露してくれた。一緒に絵本を読んで、学校のことを少し話した後、「ではそろそろ」とわたしは立ち上がった。テレビから今度はニュース番組がせわしなく流れてくる。このお宅にいる間、ずーっと大音量でテレビが点いていた。こういうの久しぶりだなぁ、どこかで見た光景だなぁと思いながら女性たちに丁寧にお礼を言ってアパートを出た。
*****
ほとんどのお宅では女性と赤ちゃんが家にいたけれど、一度だけ男性が玄関のドアを開けてくれたこともある。「今息子は寝ていてね」と言いながら中へ通してくれたのは50代ぐらいのイラン人の男性だった。ドア越しに、知らない人の家しかも男性と1歳未満のあかちゃんしか居ない家に入っても良いものかと5秒ぐらい考えたけれど、なぜか大丈夫な気がして中へ入る。
通されたのは食卓のあるリビングで、大きな本棚いっぱいに本とDVD、CDが所せましと並んでいた。「椅子に腰かけて待っていて、今コーヒーを入れてくる」と男性がキッチンへ消えたあと、DVDの背表紙にある映画のタイトルをじっと眺める。
「せっかく息子のために本を持ってきてくれたのに悪いね。今ちょうど昼寝の時間で」そういうと、男性はわたしが勤める図書館を日常的に利用していることや、本を読むことは大事なこと、文化は大切だと言いながら、自分が80年代の始めに難民としてイランからデンマークにやってきたことを話してくれた。
「イランならペルシャ語ですか?ペルシャ語の本も借りたりします?」
わたしがそう尋ねると、とんでもない!自分はもうペルシャ語で本を読むことはほとんどない、英語かデンマーク語だけで十分、子どもにもデンマーク語で話すし子どもの母親もデンマーク人だから全然問題ないよ!という。
ところで君はどこから来たの?というまたお決まりの質問がきて、わたしは自分の出自を語る。すると
「おぉ、日本か!ぼくはKUROSAWAが大好きでねぇ!」目を大きく開いて、男性は黒沢映画のタイトルをいくつも挙げて、なぜそれが素晴らしいかを嬉しそうに語った。
「日本映画はすばらしいものが多いよね、古典はもちろん、ジブリも素晴らしい。君は文化が豊かな国から来ていて幸せだね。君の子どもにもしっかり伝えてあげなさい」と男性は言った。
図書館のことや読み聞かせのことなど、もうこの人は何もかも心得ているようだし、肝心の赤ちゃんはすやすや寝ているので、話さなくちゃいけないことはないなと思ったあとは、日本映画と料理の話でさんざん盛り上がり、結局わたしたちは1時間ほど話し込んでしまった。時間に気がついて「すみません、長居してしまって!」と急いで帰り支度をするわたしに、
「いやー、楽しかったよ。奥さんが仕事に戻ってぼくが育休中だから、普段、人とゆっくり話す機会がなくてね。だからこちらの方こそ、楽しい時間をありがとうと言わなくてはね。」
男性はわたしを玄関で見送りながらそう言った。