自分が少数派だった時、知ってもらう必要性に気付いたら、まずは他の少数派である人達を知ろうとしていますか?
そもそも自分が小さな頃から、何か違うなと感じていました。
普通の日本人家庭で普通の片田舎です。小学校のクラス単位でいえば、たまにいるちょっと変わった奴、その程度ですけどね。まあ、それでも本人にとってはずっと付きまとう悩みです。だからこそ、人と違うこと、について、よく考えていました。
そして、現代の多様性を認めようとする社会。難しいですよね。
どんな少数派でも当事者の言うのは大抵・・・・
「知ってほしい」
です。
そりゃ、自分だってそうでしたけど。
じゃ、誰が知るのか?
知る必要があるというのに気付くのは、まずは当事者です。
当然、知ってもらう必要性があるのが分かるから。
それに対して、必要性にあまり縁のない、つまりは困っていない人達というのが多数派です。多数派に属する人達が少数派を知るというのが多様性を認める社会じゃないですかね。でも、現実問題、多数派にとってはたいして困らないから知ろうともと思わない訳です。そもそもその問題の存在に気付きもしません。しかも少数派って一種類じゃないですからね。多数派ってそんなに分けて考えなくてもいいですけど、少数派は細分化されます。ただでさえ、出会うことは少ない。全部のタイプと出会う訳でもない。なのに理解は難しい。この状況で知ってもらわなければいけない訳です。
ここを認識しましょう。
現代は、個々の声が大きくなりました。ネット、何よりSNSの力が大きいでしょう。多くの人には、問題の存在も知る必要がなく、少数派の多くは何とか社会に馴染もうと隠れてもいたのですが、可視化されました。おかげで「何かはっきりとは分からないけど、知った方がよさそうだ」と思うようになった人は多いでしょう。それが今現在の多くの人が居る位置だと考えます。無知の知なんて言ったりしますが、知らないことに気付いたということです。
スタート地点です。
ここで、知ってもらう側がすることは何だと思いますか?
「知ってもらうんだから、より細かな情報発信?」と思うでしょう。わたしは違うと思います。多くの草の根の情報発信によってスタート地点にたったのです。ただ情報を増やしても、無駄になりかねません。
何でもそうです。知ってもらいたいのなら相手のことを知ることが必要です。恋愛でもそうじゃないですか。矢継ぎ早に自分のことばかり発信しても相手をよく見ていないと先には進めません。
より相手に寄り添うことで、情報発信のやり方も問題解決への取り組みも違ってくるはずです。この、『より相手に寄り添う』『相手をよく見る』が、今、少数派がしなければいけないことだと思います。
世の中を変えたいならまず自分から。
少数派、言い換えると困難を背負っている当事者、弱者でもあることでしょう。そこに「また困難を上乗せするのか」と思われるかもしれません。でも、実際問題としても、他人を変えるより自分が変わり成長するのが手っ取り早いんですよね。世界ってのは不都合にできているものです。
・・・と、こう考えだしたのが何年も前です。今、やっと、改めて分かってきたところです。他人が。難しさが。自分の直面する問題だけですが、少し、対処方法の模索の中で前進した気がしています。
そして、「知ってほしい」という人達の数の多さを知りました。病気・障害・家族問題・地域の問題・会社や様々な組織にある問題、男女の問題、性的少数派の問題、経済格差の問題など、日本国内の割合と身近なところから、外国の政治や民族紛争などの問題まであります。
最近は、「どこまで知るべきですか?」とも思うようになりました。
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