見出し画像

seascape

みんな勘違いしている
彼はお花になったわけじゃない
海に帰ったんだ。

机の上に置かれた白くて小さな花の名を誰を知らないように、誰も彼が死んだ理由を知らなかった。
このクラスには彼をいじめる人なんていなかった。学年にも学校中探しても、そんな人はいなかった。
彼の死因は誰も知らない。彼の広い広い庭の美しい桜の木で首を吊ったのだとか、有毒のサフランの花を大量に食べて死んだのだとか、中には、気が触れて街中で包丁を振り回しているところを警察官に撃ち殺されたのだとか、とにかく、彼が死んですぐの頃はそのような噂が絶えなかった。
彼が死ぬ前の日、実は僕は彼に会っていた。と言っても、バイト帰りに少しすれ違っただけなのだが。

「あ、袖口くん」
僕は彼に声をかけた。袖口くん、彼はそこでやっと僕に気がついたようだった。学校にいるときとは違ったにこやな笑は微塵もなく、目を深く伏せながら、「やぁ」と、彼は言った。
「今帰り?」そう僕が訊くと、彼は
「うん、ちょっとね」と曖昧な返事を返した。
会話はそれだけ。そのままお互い逆の方向へと歩みを進め、そして日は沈み、翌日の学校に彼は来ていなかった。

朝のHRで担任の池内の口から、彼の訃報が伝えられた。誰もが驚き、僕もその中の一人だった。そして、1時限前の休み時間の間に、彼の死に関するありとあらゆる憶測が飛び交い、たくさんの噂が流れ、昼休みが来る頃には、誰がどこから持ってきたか、彼の机の上には白くて小さな花が飾られていた。

あの日、あのバイト終わりの夕餉後。水銀の煙のような深い青が充満した音のない闇の中。視覚情報に乏しい、あの夜。僕は、彼の身体から僅かながら潮の香りが漂っていたのを知っていた。彼の履いた黒のコンバースに砂がついていたことも知っていた。彼は、あの日、海に行った帰りだった。
彼が訃報を聞いた夜、彼の、屈託のない笑顔の奥にある海の、うち寄せ合う白波を想像した。人は死ぬと土へと変えると言う。少なくとも、肉体はそうかもしれない。だが、魂は、彼の精神は、透き通った海に引き寄せられて融けていったのだろう。

別段、彼に特別な感情は持っていないつもりだ。事実、彼のことを僕はほとんど知らないし、彼もまた僕を知らないのだろう。ただのクラスメイトの死。その原因。作者不明のストーリーをなぞるその他大勢の目が気持ち悪くて何度も吐いた。喉に刺さったまま抜けない骨が、蠢いて、次第に大きくなっていくような感覚。そして、芽生えた、靄の中で熱を持つ氷。毒。青い光。そのどれにも、彼が、きみが、そこにいるような錯覚に陥る。

最近、雨が多い。と思った矢先、今朝のニュースで梅雨入り宣言が発表された、と若いお天気キャスターが伝える。幸か不幸か、僕は元気だ。きみの机の上に置かれた花はすぐに枯れて、いつのまにか誰かが片付けていたから、誰のものでもなくなってしまったきみの机は教室の隅に追いやられたよ。
結局、今日は一日中雨だった。ビニール傘の透明越しに、いつもの帰路を辿りながら考える。
「夏になったら」

夏になったら、海に行こう。
彼の体がボロボロに溶けて
微量ながらも、彼の重さ分の水かさを増した
海の、さざなみや凪に混じった
きみの声を聴きに──

#詩 #現代詩 #自由詩 #ポエム #note文芸部 #100日詩チャレンジ #10日目

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?