【『逃げ上手の若君』全力応援!】(67)諏訪時継、本郷先生や石埜先生にも負けた薄い存在感!? 北条泰家のホラ話の真相は?
諏訪時継ーー確かに、作品での初登場も遅かったうえに、まったく目立ちませんでした(第23話参照)。中先代の乱が始まったここに至っても、玄蕃とタグを組んで天狗の前に現れて、泣き出してしまうとは……まったく漫画らしいキャラクターですね。
しかし、これまで私が諏訪氏を調べてきた印象では、頼重や頼継の方が〝異形の当主〟で、地味で「影が薄い」時継の方が諏訪らしいのではないのかなと思いました。
諏訪大社の次期当主という立場でありながら 個人としての時継の記録はほとんど無い 監修の先生方も「マジで何も無い」と口を揃える
このコマの本郷先生と石埜先生の冷ややかな視線(笑)。そして、その先生方より目立たない時継……哀れ。
でも、玄蕃とのユーモラスな掛け合いや、神力で目が開いた時継のなんとなく『暗殺教室』の赤羽業(カルマ)似のたたずまいは、これまでの松井先生の作品を髣髴とさせました。
余談ですが、頼重と時継を祖父と父に持つ頼継は、成長したらイケメン確定ですね(変態気質もバッチリ受け継ぐかもしれませんが…)。むしろ、「デコ」な北条高時や泰家を見ると、読者としては時行の行く末が心配です(またしても、作品のタイトルが「逃げ上手の若君」から「裏ありすぎの神様」に変更になるような危機が、時行に訪れないでほしいと願います)。
「マジで何も無い」という時継ですが、歴史上、当主であっても身体が弱かったりすると、あまり多くの記録が残されていないことがあるかと思いました。そう考えると、時継を「眼が見えず」とした松井先生の設定と、そこからのキャラづくりには本当に唸らされます。
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「いいじゃないか一緒にやろう わしは戦は苦手なのだ」「十万騎も率いたのに新田義貞の奴にボロ負けしてなあ」
確かに、『太平記』によれば、京都で足利高氏が寝返った際に、北条高時は「舎弟四郎左近大夫入道に十万騎を相添へて、京都へ差し上せ」とあります。ですが、この時の兵糧のために、新田義貞の領内の世良田で巨額かつ悪質な取り立てをしたので、義貞が挙兵に及んだということは、このシリーズの第11回でお話ししました。
そして、挙兵して勢いづいた義貞の軍を分倍《ぶばい》で迎え撃つために、高時が「重ねて二十万騎の軍兵をぞ差し下され」、泰家は義貞軍を退却させました。しかし、詰めが甘く、義貞の反撃を食らった泰家は「関戸の辺にてはすでに討たれぬべく見えける」を、彼を慕う部下たちが「命を主のために捨て」「討死す」とあります。ーーその数「三百余人」のおかげで、泰家は鎌倉まで逃げ帰れたというのです。
※分倍・関戸…「分倍」は現在の東京都府中市梅町あたり、「関戸」は同多摩市関戸。
今回の泰家のデコのバリエーションも豊富でしたね。「やるぞ」「他力で」「弱」「おかわり」(笑)。
戦は弱くとも、多くの男性をひきつけて止まない魅力的な人物だったのだろうと思います。泰家の本領は、おそらくドロドロの権力争いや人間関係のようなところで発揮されるのだと思います。本人自身がそれをよくわかっているからこそ、鎌倉は滅びても無駄に命を散らさず、その「対人能力」、時には「扇動」によって、北条再興を果たそうと誓ったーーそういうキャラクターとして松井先生は泰家を位置づけたのだと推測しました。
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「じゃあどうすれば目立てると!?」
戦闘そっちのけで玄蕃のツッコミを返す時継でしたが、人間というのは、個性があり、また、その個性と表裏一体のそれぞれの役割があります。
父・頼重を「出しゃばり」と言って我が身の影の薄さを嘆き、目立ちたいと思っているのがけなげな時継ですが、本当はわかっているのです。
「私もまた 父と言う強い光が作り出した影 この薄い影が 若君の初陣を陰よりお護りしよう」
松井先生のメッセージは、人と同じでないといけない、目立たないと認められない……と思い込んで苦しんでいる、多くの人たちに届いているでしょうか。
〔『太平記』(岩波文庫)、日本古典文学全集『太平記』(小学館)、ビギナーズ・クラシックス日本の古典『太平記』(角川ソフィア文庫)を参照しています。〕