【『逃げ上手の若君』全力応援!】(184)特定の人や場所を選ぶことなく、関わった時間の長短も関係なく……「死を挟んで向き合」う緊張感の中で生じる「父」と「子」
「人間を爆発させて陣を吹っ飛ばす?」「ははは からかうな 余はそこまで常識知らずではないぞ」
土岐頼遠の参戦で撤退の旨を告げられた宗良親王の屈託のない笑顔で始まった『逃げ上手の若君』第184話ですが、松井先生の描く宗良親王のキャラクターが秀逸すぎると思いました。
私が所属する南北朝時代を楽しむ会の代表(アニメの歴史監修協力をされています)から何度も聞かされてきた宗良親王のほわんとした雰囲気って、まさにこれだわ……と思わずにはいられません。
「守りたいこの笑顔と常識」
「殿下にあの化物を見せたくねー」
亜也子と弧次郎の宗良親王に対する人物評価と、殿下をきれいなところに置いておいてさしあげたいという思いが、痛いほど伝わってきます。
今週の最後で、読者にはまだその理由が不明ですが、前線に出て時行の望みにこたえるところなどは、護良親王のような強さはなくとも、ピュアでまっすぐだった父帝・後醍醐を思い起こさせます。
父子と言えば、越後で宗良親王を迎えるという新田義宗が登場しました。義宗は、義興と違って「?」ではなさそうですね。義宗は義興の弟ですが、正室の子であるため、嫡男として新田一族を率いていくことになります(二人の兄であり家督を継ぐはずであった義顕は、北陸の戦いで父より先に壮絶な死を遂げています)。また、古典『太平記』では、義宗と脇屋義治(義貞の弟である脇屋義助の嫡男)は慎重に行動したが義興は軽率で……といった書かれ方がされてる場面などがあり、父・義貞の野性性というか「?」を強力に引き継いだのは義興という描かれ方が、『逃げ上手の若君』ではされることになるのかもしれませんね。
新田義宗(にったよしむね)
? - 一三六八
南北朝時代の南朝方の武将。新田義貞の第三子。母は常陸小田氏の娘。左近衛少将、武蔵守、正五位下。義貞・義顕亡き後は新田家嫡子として兄義興とともに南朝方の中心となって東国で活動した。暦応三年(興国元、一三四〇)六月から八月にかけて、越後魚沼郡を本拠地にした活動がみられる。すなわち南保重貞に対して奥山荘内黒河郷地頭職(しき)を安堵したり、信越国境の志久見口の関所より志久見郷に攻め込み長峰に陣を敷いたりしている。義宗ら新田一族の越後の本拠地、魚沼郡の波多岐荘・妻有荘は、鎌倉時代から新田氏の支族里見氏系の里見・大島・大井田・羽川氏らが勢力を張っており、義貞の鎌倉攻めにも参加している。建武政権下では義貞代官として越後府中に入った堀口貞政を支えていた。この地域に義宗や脇屋義治らが宗良親王を迎えて活発に活動した。新潟県中魚沼郡川西町の上野節黒城は拠点の城で、その付近には正平(南朝)年号の自然石板碑(いたび)の分布が見られる。
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さて、冒頭での宗良親王と新田義宗の話が少し長くなりましたが、第184話では、時行と小笠原貞宗とが酒を飲み交わして、違う世であればありえた「ただの親父とガキ」となったひと時が描かれています(ちなみに、引用された詩の出典である「ルバイヤート」とは、十一世紀のペルシアの詩人ウマル・ハイヤームの詩集で、「透徹した境地で道徳や宗教を批判し、酒や美女や花をめで、ただ一瞬を楽しめとうたったルバイー(四行詩)を集録」〔日本国語大辞典〕しているといった特徴を持つそうです)。
例えば、中学校の国語の教科書にも収録されている『平家物語』の熊谷直実は、自分の息子くらいの歳の平敦盛を見逃すこともできずに首を取り、そのことに世の無常を覚えて法然上人の弟子となったとされています(ただし、諸説あります〔熊谷市立熊谷図書館「熊谷直実・蓮生法師デジタルライブラリー」の「概説」による〕)。
「ただの親父とガキ」であることが許されなかったことに耐えられなかったのは、直実一人ではなかったからこそ、『平家物語』の直実と敦盛の話は多くの人の心を打ち、今にも伝えられているのだと思います。
また、『太平記』には、赤坂城での先駆けでお互いを出し抜こうとした人見恩阿と本間資貞とが、最後はともに討死をする一部始終が語られています。
二人で先駆けをすることを決めて馬を進める場面を、日本古典文学全集『太平記』の現代語訳より引用してみたいと思います。
本間は石川の河原で夜を明かし、朝霞の晴れ間から南の方を見たところ、紺色の唐綾で縅した鎧の上に白い母衣を掛けて、鹿毛の馬に乗った武士が一騎、赤坂城へと向って行った。何者であろうかと馬を近づけて見ると、この人物は人見四郎入道であった。人見は本間に気づいて言うことには、「あなたが昨夜おっしゃったことを本当だと思ったとしたら、孫ほども年の違う人に出し抜かれていたところだよ」と笑って、やたらに馬を急がせた。本間は後ろから追いついて、「今となっては、互いに先を争う必要はありません。同じ所で屍をさらし、冥土までもご一緒いたそうと思います」と言うと、人見は、「申すまでもござらん」と答えて、後になり先になり話しながら馬を進めて行った。
※人見四郎入道…人見恩阿。
※本間…本間資貞。
恩阿は六十七歳、資貞は三十七歳で、現代だと父子くらいの年齢差ですが、恩阿は資貞を「孫程なる人〔=孫ほども年の違う人〕」と言っています。だからといって、二人は昔からの知り合いといったことではなく、先駆けを競ってほんの一瞬だけ人生が重なりあった縁でしかありません。
しかし、おそらくこの物語を聞いた当時の人々は、「後になり先になり話しながら馬を進めて行った」彼らが、どのような思いで何を話したかを自分の体験と重ねて想像し、きっと胸にこみあげてくるものがあったのではないかと私は想像するのです。自分の故郷のこと、家族のこと、そしてこれまでの戦のことなど……赤坂城までの道のりを、まるで二人は長年ともに同じ場所と時間を過ごしてきた「親父とガキ」のように、自分たちのことをとらえていたのではないかと思うのです。
「それ以上父と呼べば斬るぞ!」
「あ 抜いた」「嬉しい!! 父上が鬼ごっこで遊んでくれる!!」
現代人は血のつながりや居住地という物理的な関係を重視しますが、この時代の人々はあくまでも関係性の中に生じた心のあり方やつながり方を大切にしていて、それは特定の人や場所を選ぶことなく、また、お互いの関わった時間の長短も関係なく、「死を挟んで向き合」う緊張感の中で生じた人間的なあり方だったのではないでしょうか。
「こんな時代じゃこれが最後かもしれねーからな」
玄蕃のこの一言は、人と人との関係が永続すると〝勘違い〟している現代人に対して、目の前にいる人物と今この瞬間を真剣に向き合えているのかを問うている気がしてなりません。
〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)を参照しています。〕