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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(73)関東庇番の血の結束の「狂気」に対抗する中先代の乱の勢いはどんなもの!?

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?〔以下の本文は、2022年8月13日に某小
説投稿サイトに投稿した作品です。〕 


 おそるべし関東庇番!
 「出陣前夜もアイドルばり!!」というキャッチが編集の方で入れられていて、80年代の〇ャニーズっぽいいでたちの一色頼行が登場して高額な札を売りつける唖然の展開。
 それでも、〝うん、孫二郎くんはかわいいし、他のお兄さん方に比べたら真面目だから許す…〟なんて思っている自分に〝ダメダメ、奴らみんな足利一門! 北条と諏訪の宿敵!!〟とツッコミを入れてしまう『逃げ上手の若君』第73話。
 いや、しかし本当に、私が所属している南北朝時代を楽しむ会でも、女性会員に足利直義と足利一門推しが多いんですね。天才・松井先生は、足利の持つ女性を惹きつけるセレブ感やアイドル臭をどこに嗅ぎ取っていらっしゃるのか、聞いてみたいと思いました(しかし、それ以上に、そこを起点とした〝イジリ〟が神の領域です。ただ、(地味な)諏訪氏についてはおそらく、頼重や頼継が〝変態〟キャラでも、誰も何も言わなそうですし、むしろいろいろな意味で大歓迎なのだと思いますが、名門である足利のこのキャラクター付けには少しだけドキドキしてしまいます…)。
 個人的には、石塔範家の「白拍子天女鶴子ちゃん」と、それを「なかなか斬新な絵よ 石塔見事なり」とクールに決めてほめる渋川義季に笑いが止まりませんでした。
 この時代「婆娑羅絵」というのが流行ったようで、『太平記』にも秋山光政あきやまみつまさ阿保忠実あぶただざねの二人が鴨川の河原で一騎打ちをした絵がモチーフになって、一世を風靡したことが語られています。
 日本国語大辞典では、「婆娑羅絵」のことを「自由奔放な風流画。主として扇、うちわ、絵馬などに描いたもの。」としており、また、浮世絵のような物ではないかという説明も他で目にしました。それを総合してほんの少しだけ拡大解釈すれば、〝痛鎧〟はアリ!なのではないでしょうか(笑)。
 なお、一色氏、石塔氏も足利一門です。

足利氏(あしかがし)
(一)
清和源氏。義家の子義国より出た鎌倉時代の豪族、室町時代の京都将軍家および鎌倉公方家となる。義国は、義家が下野守時代に開いた下野国足利の地を譲られて、子義康とともに鳥羽院に仕え、その地を法皇の安楽寿院に寄進して領有を確保した。安楽寿院領は皇女八条院に伝わり、のち大覚寺統の御領となった。義康は保元の乱に嫡家義朝と行動をともにし、その子義兼は頼朝の鎌倉開府に参じて親任され、北条時政の女を妻せられ、平家追討戦の功により上総介に任ぜられた。またこのころ下野に蟠踞していた藤姓の足利氏は平家に属して滅びた。義兼は足利の邸内に持仏堂を営み、堂僧をして講筵を開かしめたが、これがのちの鑁阿(ばんな)寺および足利学校の基となったという。その子義氏のころは子弟多く幕府に出仕し、義氏また幕府の宿老として重んぜられ、三河を領国とし、上総を守護国とし、上野・美作・陸奥にも所領を有し、後世足利氏発展の基礎がつくられた。その子泰氏は早く出家したが多くの子女があり、斯波・渋川・石塔・一色・加古・小俣の諸氏が出で、これより先に分かれた仁木・細川・畠山・岩松・桃井・吉良・今川の諸氏とともに強大な一族を形成するに至る。〔国史大事典〕

 前回紹介した谷口雄太氏の『〈武家の王〉足利氏』では、中世日本における足利一門として、上記を含む35氏を挙げています。足利一門であるか否かのみならず、足利一門でも序列があることもその時に触れましたが、作品にも登場している渋川義季の娘・幸子は、のちに二代将軍となる尊氏の嫡男・義詮よしあきらの正室となっているそうです。


 「足利家への強い忠誠が… 様々な狂気の形で諸君の中に宿っている

 直義は特に、一門を優遇したということを本で読んだことがありますが、足利一門の血の結束の徹底ぶりを、「狂気」として漫画のエッセンスとする松井先生が本当にすごいです(語彙が乏しくて申し訳ないです…)。

石塔範家特注の婆娑羅絵(?)でデコった〝痛鎧〟に「ぞわぞわ」

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 一方、岩松四郎の上野を余裕で抜けてしまった時行たちですが、どのくらいの勢いがあったのでしょうか。鈴木由美氏の『中先代の乱』を見てみたいと思います。

 金勝院本『太平記』によると、時行を擁した諏訪頼重は、信濃国司を攻めて自害に追い込み、七月十八日に上野(群馬県)に侵攻したという。

 ちなみに、時行らが信濃で勝利して、信濃を出たのはいつなのでしょうか。

 時行方と信濃守護小笠原貞宗方が衝突したのは、七月十四日である。守護方は前日の十三日の時点ですでに軍勢を集めていたから、少なくともこれ以前に時行方は蜂起していたことがわかる。

 鈴木氏は、信濃での蜂起は六月二十三日ではないかということを示しています。さらに、守護を襲った軍は二十二日まで戦い続けたということで、保科・四宮勢は「守護方の軍勢を引き付けておくための陽動作戦であった可能性」があり、「時行のいた本軍は別行動をとっていた」としています。
 それにしても、信濃を出て七月十八日に上野侵攻の後(詳細はネタバレになるので伏せますが)、いずれにせよ次に日付が明確なのは、鎌倉を出た直義と激突した七月二十二日ということなので、おそろしいスピードで攻め込んでいるのがわかります。

 「関東で北条氏を支持する勢力が強かったことに加え、建武政権に不満を持つ武士が多くいたことを示すと考えられる」とする鈴木氏。『太平記』によれば「その勢大名五十余人、五万余騎もの大軍」になったということです。
 三谷幸喜氏の『真田丸』以降、大河ドラマで合戦が一瞬で終わる演出がシニア層には不評のようですが、もしかしたら、中先代の乱・関東初戦はこんな感じで間違いないのかもしれません。混乱した岩松に殺されそうになった猫ちゃんを「ひょい」と救ったかどうかはわかりませんが(笑)。

〔ビギナーズ・クラシックス日本の古典『太平記』(角川ソフィア文庫)、谷口雄太『〈武家の王〉足利氏 戦国大名と足利的秩序』(吉川弘文館)、鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)を参照しています。


 いつも記事を読んでくださっている皆さま、ありがとうございます。興味がございましたら、「逃げ若を撫でる会」においでください! 次回は11月11日(金)開催予定です。
  ※詳細は追ってnoteにてお知らせいたします。


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