お気に入りの評論――村上陽一郎「科学と世界観」⑧(2014年6月22日)
先に私はメルマガを発行していたことをお知らせしましたが、廃刊にしたメルマガの中で、もう一度みなさんにも読んでほしいと思う情報をウェブリブログにて再録していました。
教科書に採用されていた評論の解説もそのひとつでした。しかしながら、それらの閲覧数が他の記事をはるかに上回っていることが大変気になり、いくつか思い当たることがありました。
noteにもそうした危険のある記事を収録するか、収録するにしても有料にしてしまうかで悩みましたが、結局そのまま掲載することに決めました。学校での宿題のためにこのページにたどりついた方は、どうか上で紹介した記事も合わせてお読みください。よろしくお願い申し上げます。
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発行人は古典が専攻ではありますが、評論についても古典と同じくらい(自分で読むのも、教えるのも)好きです。そこで、これまで扱ってきた評論の中で、気に入った作品を紹介し、考察してみたい――という考えがきっかけで始めたコーナーです。
現在は、村上陽一郎氏の「科学と世界観」を分析していますが、読解のためにとった実践なども紹介していきます。
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「科学と世界観」には、内容に沿って六つの小見出しが付けられています。
「壮大なプログラム」
「救済史観の変遷」
「世界観としての位置」
「南北の食い違い」
「自然の流れの中に」
「二つの力の緊張関係」
今回はやっと新しい段落、「自然の流れの中に」です。
「一文要約」と称した作業プリントにおいて、この段落の問いは以下のようなものです。
第五段落の小見出しは「自然の流れの中に」となっているがそれはどういうことか。第五段落中より、それが最もよくわかる一文を抜き出しなさい。
この段落は、冒頭に答えがあります。
しかしながら、人間の主体的な選びと同じように大切な第三の点は、人類もまた自然の導く(あえて神の導くと言わないまでも)流れの外にはあり得ない、ということの認識であろう。
「第三の点は」とあることで、この第五段落がいまだに第四段落の続きであること、同時に、「人間の主体的な選び」ということが第四段落で先に示された二つの論点のポイントだということも理解されます。
では「自然の導く流れ」とは何か。
第五段落の後半には次のような記述があります。
人類は、与えられた高い自由度の中で、自らの行動様式を束縛するものとして文化を築いており、文化とは人為的営為であるとすれば、自らの「種」としての存在様式を、自らの選択によって自由に決定することができるのだろうか。
明らかにそうではない。人間の文化は、また自然としての人間の所産である。自然を離れた純粋に人為としての人間などが存在しないことは、人間から切り離された純粋な自然などが存在しないことと同様である。文化の歴史は実は自然の歴史なのだ。
「人間は、細菌さえ生息しなかった極地でも暮らすことができ、文化的に極度に多様化することもできる」という「選択」、「人間の主体的な選び」という事実の側面には、人間はその与えられた自然環境における変化を受けた「種」としての限定された「文化」を持たざるを得ない、つまり自然による「束縛」を受けるという事実が存在するのである。
上記の読解には次の二つの問いを立ててみました。
問一 第五段落の冒頭、「人間の主体的な選びと同じように大切な第三の点は、人類もまた自然の導く(あえて神の導くと言わないまでも)流れの外にはあり得ない、ということの認識であろう。」において、人類が置かれている状況が対比されている。右の引用文中に出てくる順にそれぞれの概念を漢字二字で抜き出しなさい。
A▢▢ ←→ B▢▢
問二 第五段落において、「文化の歴史は実は自然の歴史なのだ。」とあるが、どういうことを言っているのか説明しなさい。
問一の答えは、「束縛・選択」です。
問二の模範解答は以下の通りです。
人間の持つ生物学的な自由度は高く、生活する自然環境を「選択」することができる一方で、人間はその与えられた自然環境に限定された「種」として、行動様式における「束縛」を受けるということ。
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長い時間をかけて分析してきた「科学と世界観ですが」次号はいよいよ最終段落です。お楽しみに!
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