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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(181)結城宗広の「真面目」な息子と「趣味を理解できた」息子、「大徳王寺城の戦い」情報、モブ卒業の保科党の皆さん、伏線感じる上杉憲顕の子どもたち?……などなど

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2024年11月24日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


祝・モブ卒業!
(結城三十郎さんの僧形がキュートすぎてギャップがヤバイ)


 「めっちゃ助かるぜオッサン共!
 「弧次郎ー!

 『逃げ上手の若君』第181話、アニメでも大活躍だった保科党が参戦!  
 牧九太郎さん、どんだけ弧次郎好きなんだか……いや、塚田さんも、竹前さんも、丸山(フルネームが丸山角助って(笑))さんも、みんな嬉しそう。……あれっ、今さらですが、保科党の皆さん方、結城三十郎さんに遅れをとりながらも名前で登場、見事モブキャラ卒業じゃないですか! 
 アニメ第一期の活躍で「オッサン」たちの人気が炸裂、松井先生としても、再登場した彼らに名前くらい与えないとならなくなったといったところでしょうか。……いや、裏読みが大好きな私はそうは考えませんでした。これは、「作画手間」(by雫)と同じ心理が隠れているのではないかというものです。つまり、〝写植手間〟対策ではないかというものです。
 孤次郎は彼らを、「顔面が集中線のオッサン」「全体的にしかくいオッサン」「化け物的な何か」「ハゲのおっさん」と呼び(第29話「将1334」)、のちにそれが誤りだと発覚すると、「しかくまるが混在しているオッサン」「ほぼハゲだけど地毛も残っててその僅かな地毛は剃ったオッサン」と、ますますややこしいことになったわけです(弧次郎の律義さも、こんなところで発揮されるという……)。〝名前を付けなければ写植の手間がヤバいことに〟ということで、再登場にあたり、〝大人の事情〟でモブ返上!?というのが私の考えです。
 ーーえっ、今はPC作業だから〝写植手間〟なんてありません……ですか。う~ん、出版・印刷業界のことは詳しくないので、真相はわからずでじまいです。
 ※写植(しゃしょく)…写真植字phototypesetting
 活字を用いず,光学的手段により文字画像を印画紙,または写真フィルムに植字し,文字組版を行うことをいう.文字,記号類のネガ原画像を集積配列した文字盤から所定のものを選択し,感光体面上に投影複写する操作を繰り返す.文字画像の拡大,縮小,変形が容易である.作製された文字写真像は印刷の製版用写真原画像として用いられる.コンピューターと写真植字を組み合わせたシステムを電算写植ということもある.〔森北出版・デジタル化学辞典(第2版)〕

 「保科党面倒臭え!」と心の中で叫んだ弧次郎でしたが、「…いや 味方の名前を覚えてない俺が悪い 次からは飯時にでも挨拶に回ろう」と言っていましたね。弧次郎が今や、北条の副将として認められる努力を重ねた証拠として、作品で「オッサン共」の名前が堂々示されたというのが、キッズの読者も多い『逃げ上手の若君』の最も「清潔で上品な」解釈だと思います。

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 「三十郎の兄さん」「その七支刀は御父君の?

 ……見逃していました。前回の最後のコマ、僧形の三十郎さんの手にした刀には、七支刀独特の刃のカーブが見えていました。
 「諏訪大社を通して保科様のもとにこれが届き父の死が死んだと悟りました」と回想する三十郎さんの涙に、私も涙を誘われました。ーーしかし、さすがは松井先生、三十郎の出家の目的は亡き父の供養などではありませんでした!

 「鬼の安全を守るため 出家して父に成仏を促すことに

 確かに、昔話や説話などで、鬼をだまして地獄から脱走するといった話はあります。ただ、そんな話とはまるで次元が違うのを、三十郎は理解しているのです。父・宗広の場合、地獄の秩序を乱して迷惑をかけるだろうから「成仏を促す」というのです。……それを淡々と述べる三十郎さん、さすが宗広が「私の趣味を理解できた」唯一の息子と言っただけあります(第121話「少年時代1337」)。
 結城宗広が地獄で拷問を受ける様子は、古典『太平記』で詳細に語られています。宗広の知り合いの僧が、旅の途中で宿を世話してもらった美しい姿の僧によって地獄へと導かれ、宗広の姿を目の当たりにします。少し長くなりますが、日本古典文学全集の現代語訳でその部分を引用したいと思います。

 火の車に一人の罪人を乗せて、牛頭・馬頭の鬼どもが車の轅を引いて、大空から現れた。それを待っていた地上の悪鬼どもは、鉄の俎で堅固なものを庭に置いて、その上にこの罪人を捕まえて仰向けに横たえ、その上にまた鉄の板を重ねて、大勢の鬼たちが膝を曲げ肱をのばして、「えいや、えいや」と押すと、俎の端から血がまるで油を絞るように流れ出た。その血を大きな鉄の桶で受けて集めると、桶いっぱいになって、まるで夕日の照り映える揚子江のようであった。その後、二枚の俎を取り除いて、紙のように押しひしげられた罪人を鉄の串で貫いて、炎の上に立て、繰り返し繰り返しあぶる様子は、まるで料理人が肉を調理するのと変らない。すっかりあぶって乾かしてから、再び俎の上に載せて押し延ばし、肉切り包丁に鉄のまな箸を添えて、ずたずたにこれを細かく切って、銅の箕の中に投げ入れたものを、牛頭・馬頭がその箕を持って、「活、活」と唱えてこれを見ると、罪人はたちまちに生き返って、また元の姿になるのであった。そのときに獄卒たちは鉄の鞭を手にして、罪人に向って怒り、責めて、「地獄が地獄になるのではない。お前の罪がお前を責めるのだ」と言う。罪人はこの苦しみに責められて、泣こうとするけれども涙は出ない。激しい火が眼を焼くからである。叫ぼうとするけれども声も出ない。鉄の塊が喉を塞いでいるからである。もしわずか一時の苦しみを語ったにしても、聞く人はむごさに地に倒れてしまうだろう。客の座にいた僧はこの様子を見て、正気を失い、骨も砕けてしまう心地がして、恐ろしく思ったので、主人の法師に向って、「これはどのような罪人を、このように責めさいなむのでしょうか」と尋ねたところ、主人は、「これこそ奥州の住人で結城上野入道と申す者が、伊勢国で死んだのでございますが、阿鼻地獄へ堕ちて、責めさいなまれているのでございますので、もしその方のゆかりの方でいらっしゃるのでしたら、生き残っている妻子たちに、『一日経を書き供養して、この苦しみを救いなさい』と、おっしゃってください。私はあの入道がこのたび上京なされたときに、鎧唐櫃の中に入れてくださり、朝夕の食物も分けて供養くださった、六道の迷いから衆生を導く地蔵菩薩でございます」と、詳しく自らについてを教え、その言葉もまだ終らないうちに、夜明けを告げる野寺の鐘が松の枝を吹く風に響いて、かすかに聞えたところ、鉄の城も瞬時にかき消すようになくなって、主人の法師も見えなくなり、宿泊所に座っていた僧だけが、野原の草の露の上に、呆然と座っていたのであった。

 引用中の「主人の僧」というのが、宗広の知り合いの僧に宿を世話してそこから彼を地獄に導いた美しい姿の僧で、その正体は宗広が「鎧唐櫃の中に入れて」「朝夕の食物も分けて供養」していた「地蔵菩薩」だったという、いかにもかにも中世の日本という話の展開になっています。
 宗広の知り合いの僧は、伊勢から宗広急死の報せが来るよりも前に、奥州にいる宗広の息子にこの出来事を伝えます。ーーこの息子というのが、『逃げ上手の若君』では宗広が「真面目な子」と評した一人の結城親朝です。ゆえに、『太平記』では、親朝と家族たちが、僧(から聞いた地蔵菩薩の言葉)を信じて、「一日経を書き供養」したので、悪人の父・宗広も救われたのでした……という南北朝あるあるの結末となっています。
 ※一日経…多くの人数で、一日のうちに経を書写すること。『法華経』が書写されることが多かった。

 おそらく『逃げ上手の若君』世界での宗広としては、奥州の家族たちは自分の悪行をよくよくわかっていて、大事な七支刀を遺品として送ったところでヤバイ代物だからと処分してしまうのが目に見えていたのでしょう。そこで、時行たちから三十郎が保科党にいることを聞いていたので、その価値のわかる彼に譲りたいと思ったのでしょうね。三十郎は父が「さがを貫き死んだ」ことの意味を七支刀とともにしかと受け取り、地獄の「鬼の安全」を思って「出家して父の成仏を促すことに」したというのですから……よくできた息子としか言いようがありません。
 それにしても、『太平記』の地獄の描写が、現代人にはどことなくコミカルに感じられてなりません(宗広はおそらく、拷問のパターンに慣れ、隙をついて「脱走して殺害と解剖」、元に戻されて……以下くり返しといったところでしょうか?)。確かに、決められた仕事をひたすら懸命にこなす鬼よりも、欲や悪意にまみれた人間の方がよほど危険です。なぜならば、地獄の鬼は無差別に拷問をしているわけではないですからね。地獄に送られてきた悪人だけを対象としています。しかしながら、欲や悪意にまみれた人間は、だいたいが弱い者を食い物にします。こんなところからも、鎌倉・南北朝時代と現代の人間との倫理的な違いはどこにあったのだろうと、あらためて考えてみたくもなります。
 それはそうと、戦とは関係ない人たちも無差別に殺したとされる宗広が、悪人として地獄に送られるのは当然としても、人並みに地蔵も信仰し、実はおせっかい焼きだったという一人の人間としての生の輝きが、無数の首とともに宇宙空間で微笑むキラキラな宗広によってシュールに表現されているのだなあと、私は勝手に想像しました。

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 今回、今後の大きな伏線となりそうな、現段階ではネタでしかないようなことをもう一つ、取り上げてみたいと思います。

 「憲顕お前… 研究が迷走してないか?
 「……
 「あの子らは私が育てる いいな

 上杉憲顕の兄・上杉重能登場! あれっ、私のイメージとは違って穏やかそうで、憲顕よりもずっと常識人だと思いました。それというのも、この人はのちのちある重要人物を惨殺したというイメージが強くあったからです(すでにこの先の歴史をご存知の方も多いと思われますが、今は伏せておきます)。
 それよりも、「我が子ら」を「狼に育てさせてみた」というこの話、大学の教育心理学の授業で知って衝撃を受けた〝アマラとカマラじゃん!〟と思いました。
〝アマラとカマラ〟とは、二十世紀の初め頃にインドで発見された孤児の少女たちで、発見者によれば狼に育てらていたとされ、保護した後も二足歩行や言語の習得は困難で、長くも生きられなかったという二人の子どものことです(詳細をお知りになりたい方は、〝アマラとカマラ〟あるいは〝狼にそだてられた子〟で検索してみてください)。
 憲顕の子たちは「言葉も話さず父にも噛みつく凶暴な子に」なってしまったと、憲顕は重能に告げています(「」とは自分のことではなく子らを育てさせた「」ということでしょうか……いずれにせよむごい……)。アマラとカマラについても、「まさに野生の狼のようにふるまっ」て、「常に四つん這いで移動する」こと、「口にするものは生肉と牛乳」、「聴覚、嗅覚が異常に優れ、70メートルも離れたところに置かれた肉の存在を察知することができた」ということなどが、彼女らについて記した資料にはあるそうです。しかしながら、現在のところ〝狼少女アマラとカマラ〟の話については、少女たちを発見して養育したシング牧師の創作が大部分ではないかという疑問が呈されているそうです(実際、直前の引用部分も教育学や発達心理学等のサイトではなく、『Webムー』の「野生児を通じて教育の意味を問う奇譚「狼少女・アマラとカマラ」の悲劇」(文=初見健一)によるものです)。
 憲顕みたいなことは常識的に考えても絶対にしちゃだめだし、たまたまそうと疑われるような孤児がいたとしても、金儲けの嘘で見世物にしたりするのもだめだということではないでしょうか。ーー重能本人ではなく、重能に引き取られたこの子たちが、先に話した「惨殺」に関わるという報いがあるような気がしてなりません。

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 最後は、ファン目線でもって、諏訪のキャラクターたちの話題で盛り上がりたいと思います。
 まず、「身体が弱く」とは言うものの、ここで床に臥せっているのではない祢津次郎くんが再登場したのをとても嬉しく思いました(「御跡目」自慢の弧次郎の背後で牧さんが「おおおすげー」と手放しで称賛しているの姿にほっこりです)。
 それにしても、遠回しでクールな祢津頼直の支援に対して、大量の米俵に「食え 父」の札を添える望月重信のおおらかな支援……性格の違いがよくわかります。でも、どちらも〝じーん〟ときます。
 一方、大徳王寺の一の櫓は〝ぷーん〟と匂っていましたが、鈴木由美先生の『中先代の乱』によれば、この戦いは「約四ヵ月の籠城戦」であったとあります。『中先代の乱』には、戦いの様子を記した「守屋貞実手記」の写真があります。肝心の箇所が読みにくいのですが、「数十度もの城攻めを撃退し続けた」という情報はこの文書によるものだと思われます(なお、時行は諏訪頼継とともに挙兵したとなっています)。
 「守屋貞実手記」は、「大徳王寺の戦いの数十年後に書かれたもの」だというので、当時の時行の動向はまさに〝謎〟に包まれているというのが真相のようです。しかしながら、彼が時代を駆け抜けていったと思われる足跡は、信濃の所々で見られます。今回のジャンプ本誌の「解説上手の若君」には、石埜三千穂先生が再々登場されていますが、その石埜先生が時行の伝承をたどって現地に赴く地元ケーブルテレビの特集番組を大変興味深く拝見しました。(現在5本の特番がYouTubeチャンネルで視聴でき、今後も続くそうです!)

 現在、鎌倉の源ホテルで『逃げ上手の若君』のコラボルームが展開されていますが、私も妹と宿泊することがかないました。その際、部屋のTVで石埜先生が出演されているこちらの動画を、次に泊まる人たちにも見てもらえるように何回もリピートしました(笑)。この記事を読んでくださった、『逃げ上手の若君』の諏訪・信濃編に興味をお持ちの方にも視聴していただければ嬉しく思います。

〔日本古典文学全集『太平記』(小学館)、鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)を参照しています。〕

 

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