【『逃げ上手の若君』全力応援!】(132)「?」な父子・新田義貞や徳寿丸(義興)の脇を固める堀口貞満や畑時能とは一体どんな人物? 時行の降伏文書や諏訪大社の復習などもしてみる!
南部師行、結城宗広の両雄、やはり大武士団の棟梁の風格ありあり……と言いたいところなのですが、どう見ても東北の癖強なオッサンにしか見えませんね(汗)。南部さんは美女通訳さんのおかげで他の武士団との全面戦争にならずに済んでいるのではないかと思いますし、お魚にまで〝戯れ〟てしまう結城さんの地獄行きは避けられないだろうなと思わず合掌の、『逃げ上手の若君』第132話冒頭です。
鎌倉幕府に直属する御家人といえどもさまざまあり、数百騎動員できればこれはもう大武士団で、下手をすると、当主とその子どもと妻の兄弟の数人レベルの規模も多かったそうです(かくいう北条氏も、治承四年の頼朝伊豆挙兵時は、成人男子が四人、多くても二十騎程度であっただろうと、細川重男先生がおっしゃっていました)。
……とすると、時行と直属の郎党数名で構成される「逃若党」レベルの武士集団は当たり前だったかもしれませんし(「伊豆北条党」を加えれば、超弱小というわけではなさそうですね)、だとすればなおさら、雫のように〝頭を使う〟こと(決して「守銭奴」ではありません!?)や、武士団同士の〝共闘〟は(「?」な徳寿丸(新田義興)のようなカジュアルなノリではなかったはずですが)、生き残る術として必須であったろうと推測されます。
※武士団の〝共闘〟については、過去に本シリーズで触れています。興味のある方は以下の記事をご覧になってください。
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「元弘に、義貞は関東を滅ぼし、尊氏は六波羅を攻め落とす。かの両人、いづれも勅命によつて征罰を事とし候ふ間、憤りを公儀に忘れ候ひし処に、…」
※元弘(げんこう)…元弘三年(1333)、新田義貞が鎌倉を滅ぼし、足利高氏が六波羅を滅ぼしたこと。
これは、古典『太平記』における「後醍醐天皇への書状」の一部です。時行は、義貞と尊氏が「勅命により北条氏を討った以上、公の決定に対して憤ることはしなかった」と述べているのですが、直後には「尊氏、忽ちに朝敵となりしかば、威を綸命の下に仮つて後、世を叛逆の中に奪はんと企てける心中、事すでに露顕候ひ訖んぬ。」として、「(持明院統の)帝の命に威を借りて」天下を手中に収めようという尊氏のやり方を激しく非難します。
そして、恩義ある北条氏に対してかつてとった非道を、あろうことか後醍醐天皇に対しても行っていることを指摘して、「大逆無道の甚だしき事、世の悪む所、人の指さすところ」であると述べます。尊氏(そして直義も)を許せないという思いは、決して私怨などではなく、世の人々も同じであると断言しているのです。
そんなわけで畑時能さん、時行を「ウサギちゃん」だなんて(『どうする家康』ですか!?)見た目で判断してはいけませんね。後醍醐天皇ですらこの書状を見て、「油断ならぬ幼子だな きっと… 狼のごとく鋭く飢えた顔なのだろう」(第115話「逃若党1337」)といった大外れのイメージを抱いているのですから(笑)。
ちなみに、畑時能とはどのような人物なのでしょうか。調べてみました。
畑時能(はたときよし)
? - 一三四一
南北朝時代の武将。六郎左衛門と称す。武蔵国秩父郡の住人。のち、信濃に移る。南北朝内乱の開始とともに、新田義貞の軍兵となる。のち、脇屋義助に属して活躍した。三井寺の合戦などで戦功をあげる。『太平記』には「日本一の大力、剛者」とあり、謀略に秀で、騎射をはじめあらゆる武芸を能くしたという。〔国史大辞典〕
武芸全般に優れ山野河海に漁猟したという。いわゆる典型的な〈悪党〉である。〔世界大百科事典〕
「悪党」と言えば、『逃げ上手の若君』ではインパクト大の敵キャラ・瘴奸がいました。畑もガラが悪いのです。しかしながら、畑自身も身内もべらぼうに強い様子が『太平記』では語られています(新田軍にはパワー系が多いです)。また、堀口と畑の間にちょこんと犬がいますが、その名はおそらく「犬獅子(けんじし)」。畑の相棒とも言うべき犬で、偵察ができる賢い犬、忠義の犬として登場します。畑のことはこれ以上語るとネタバレになりかねないので、今回はこのくらいにしておこうと思います。
また、畑とは違って折烏帽子をかぶっている堀口貞満はどうでしょうか。
堀口貞満(ほりぐちさだみつ)
一二九七 - 一三三八
南北朝時代の武将。三郎と称す。永仁五年(一二九七)に生まれる。父は貞義。上野国新田郡の住人。祖先が新田荘の南辺堀口に住したことにより氏としたという。新田義貞に従って鎌倉を攻撃し、赤橋守時を斬るなどの功をあげた。この功により、建武元年(一三三四)後醍醐天皇から正六位上、大炊助に、翌年には、従五位上、美濃守に補任された。建武三年(延元元、一三三六)後醍醐天皇が足利尊氏と和を結び、延暦寺を出ようとした時、貞満は、天皇に建武新政府樹立にあたって新田義貞の戦功が第一であったことを泣きながら訴え、尊氏との和睦に難色を示した。天皇は貞満の諫言を受け入れた。義貞に恒良親王・尊良親王を奉じて越前に赴き、南軍の拠点を作るようにとの密命を下した。貞満は、義貞とともに両親王を奉じて、越前金崎城に拠った。翌年、北畠顕家が陸奥より西上した時、美濃国根尾徳山にいた貞満は、出兵して顕家軍を助けた。暦応元年(延元三、一三三八)正月越前において四十二歳で没したという。〔国史大辞典〕
上記の引用で、「本体は北陸にいる父上の元にいるから」と徳寿丸が言う事情もおわかりになったのではないでしょうか。後醍醐天皇は、結果的には新田義貞を〝切り捨てて〟足利尊氏と和睦している(そして、花山院に幽閉され吉野に脱出(第114話「インターミッション1336🈡」))のです。ーー『逃げ上手の若君』では、「歳も近く境遇も似た少年同士」と一言だけ記されていますが、まさにこのことが新田一族の悲劇の引き金となるのです。
堀口貞満については、本シリーズで随分前に紹介をしています。新田義貞の脇は、畑をはじめとするパワー系が固めていただけではなく、堀口貞満のような、義貞の「?」を補う智と勇を持ち合わせた部下たちも控えていました。……とはいえ、やはり新田一族、関東のヤ〇キーだなと思わせる不敬ぶりなのですが(それでも、私は堀口の行動を支持します。関東人ですしね!)。
※興味のある方はぜひ、以下の記事で堀口貞満の〝活躍〟を知ってほしいです。
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最後は、『逃げ上手の若君』の魅力的な女の子たちの話題にしたいと思います。
雫は、やはり諏訪頼重の娘、頭が切れて当然だなと思いました(実の親子でないとしても、頼重が直々に教育をしたのであれば思考パターンは似るでしょう)。
ちなみに、雫が「諏訪大社の支社」と言うのは、関東地方には狩りをするために信濃の本社を勧請した地が多く存在していた事実を受けています。
実際、現在に至っても鎌倉周辺には数多くの諏訪神社が存在しています。
※神奈川県だけでも、40社以上ありました。詳しくは「神奈川県神社庁」の公式サイトでご確認ください。
https://www.kanagawa-jinja.or.jp/?search_element_2&s_keyword_3=諏訪神社&searchbutton=検 索&csp=search_add&feadvns_max_line_3=4&fe_form_no=3
女の子らしいのはやはり亜也子ですね。男の子を「山分け」だなんて、一体どうするつもりなんでしょう。
そして夏ですが、海魚の生臭さを毛嫌いするのに対して「さては君は山育ちだな」と時行に指摘されています。足利学校で訓練を受けていたことも考え合わせると、上野か下野(現在の群馬・栃木あたり)の出身なのかもしれませんね。私個人としては、時行に羽交い絞めされた以上に、刺身の美味に顔を赤らめて瞳をうるうるさせてしまう夏のズレっぷりが好きです。
〔『太平記』(岩波文庫)、日本古典文学全集『太平記』(小学館)を参照しています。〕