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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(70)とうとう〝名乗(なのり)〟を上げた「相模の次郎」北条時行……「雑魚北条」ではなかった彼に小笠原貞宗迫る!!

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?〔以下の本文は、2022年7月17日に某小
説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 「我こそは相模の次郎… 名を北条時行とぞ申し侍る!!
 ※侍(はべ)る…現代語だと「です」「ます」「ございます」に相当する丁寧語。
 ※相模の次郎…時行の亡き兄の邦時が長男で「太郎」なのに対して、次男の時行は「次郎」。「相模」は、ここでは鎌倉北条氏のこと。

 ある時期から、〝頼重はいつ、どのようにして、時行の正体を明かすのだろうか〟と、それをいろいろ想像していました。瘴奸を討ち取った直後にもそれはなく、いつかいつかと待ち望んだ瞬間が訪れた『逃げ上手の若君』第70話での迫力の見開きでした。
 保科弥三郎と三浦八郎が、この世の終わりといった顔をしているのが、あまりにも他と反応が違い過ぎていて笑えました。
 前夜の宴の際の態度のみならず、二人に関しては、先の戦場において〝長寿丸〟に対して、本気で挑みかかったり、指を鼻に突っ込んだりといった無礼すぎるふるまいがあったので、当然と言えば当然でしょうね。

時行を前にしてひざまずく諏訪頼重と諏訪神党三大将

 しかしまあ、時行に名乗らせる前の頼重ですが、インチキ顔でキンピカピンに光りながら「皆の衆注目!」からの「《《こここら先は大将が変わる》》」と伝える真顔のギャップといい、三大将とともにひざまずく演出(?)といい、この日のために時行に練習させていたのではないかという見事な名乗りといい……私がこれまでこのシリーズで推測してきた、諏訪氏の十八番おはこである先読み能力を駆使したであろう段取りが完璧だと思いました。

 『逃げ上手の若君』が創作作品だとはわかっていながら、「史実において諏訪頼重は 侍王子の素性を… 信濃を出るまで徹底して隠し通した」という二年の重みと、時行を見守る頼重の眼差しに、胸が熱くなりました。

名乗(なのり)
 名告 (なのり) とも書く。未知の相手に対し、自分の姓名を告げ知らせる行為。源平合戦のころは、戦場で敵と遭遇すると、声高々と本国、家系、氏名、年齢、戦歴などを名告り合って戦いに臨んだが、南北朝時代以後、武器に槍 (やり) が加わり、集団戦闘が主となると、しだいにその意義を失った。さらに室町末期に鉄砲が出現すると、敵味方の距離も開き、そのうえ戦闘も激烈化して、戦場の名告は旗指物 (はたさしもの) (馬印、幟旗 (のぼりばた) 、指物など)や、全軍朱一色に統一した井伊家の朱具足 (あかよろい) などの甲冑 (かっちゅう) 類にみられる目による標識へと変化していった。
〔日本大百科全書(ニッポニカ)〕

 『鎌倉殿の13人』でおなじみの北条時政・義時父子からスタートして、貞宗は時行をしょせん庶流の「雑魚北条」であろうと考えます。しかし、泰時、時宗と名乗りを続ける時行に対して、諏訪神党はザワつきます。
 ※庶流…本家から分かれた家柄。分家。別家。『逃げ上手の若君』であれば、第1話で足利高氏に殺害された名越高家の名越氏などが庶流のひとつ。野口実氏の『図説 鎌倉北条氏』には、14の庶流が紹介されており、それぞれに家のランクや役割等があったようです。
 
 なお、泰時のところで出てきた「御成敗式目」については、本シリーズの第45回を参照してください。

 「…なあ ずっと本家の血筋だぞ

 名乗りの場面での松井先生のコマの展開の仕方もカッコイイと思いました。系図をスクロールするみたいにコマを進めていくので、貞宗や神党と一緒に、一体この子は何者なのだという緊張が高まっていきます。
 そしてさらに、時行・父である北条高時がイケメンで登場します(高時の中での父の像なのかもしれませんね)。そこには、「徳崇大権現という名を賜りし」とあります。
 ここで、「得宗」についても説明しておく必要があるかと思いました。

とくそう 【得宗・徳宗】
〔名詞〕 鎌倉幕府の執権(しつけん)を世襲した北条氏の嫡流家。また、その当主。二代義時の法名に始る称。五代時頼は、康元元年(一二五六)に出家し執権職を退いた後も幕政を左右し続け、以後、執権職は有名無実となり、得宗が政権を担当する得宗専制政治が展開された。
〔角川古語大辞典〕

 少しだけ最近の私の体験をお話すると、どういうわけかこの半年くらいの間に三回も「徳崇大権現」を拝んでいます。ーー鎌倉の宝戒寺ほうかいじというお寺の一角に祀られた神様です。
 宝戒寺を参拝した際にいただいた案内によれば、「当寺は北條義時が小野邸を造って以来北條執権の屋敷となり、元弘三年(一、三三三)五月二十七日北條九代滅亡後その霊を慰めるため、(中略)後醍醐天皇が足利尊氏に命じこの屋敷跡に建立させた寺である」とあります。そして、「徳崇大権堂」の祭神として「徳崇大権現(北條髙時公)」が記されています。お堂の中を覗き込むと、思ったよりも小ぶりな男性の像が納められているのが見えました。

 「神の使徒」らの不安が歓喜と熱狂に変わり、天狗と貞宗が驚愕し、かつ、「漫然と南に向かっている」「この戦の真の目的」に気づいたであろうその理由が、おわかりになりましたでしょうか。

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 ところで、最後にオチというのではなく、松井先生の芸が細かいというか、気になった点をひとつ。
 諏訪時継がこんな大事な話の中で、どの場面にも見当たりません。どこかに『ウォーリーをさがせ!』みたいにまぎれていないか探してみてはしたのですが……どなたか見つけられたでしょうか。
 その時継が、「ここで殺す」と意気込む貞宗を防ぐのかとみて、私はやはりそうではなかろうと予想しています。史実では、時行たちの囮となって信濃で貞宗軍と交戦したのは保科・四宮であり、彼らの運命、そして時行たちの鎌倉へ向けての進軍を松井先生がこれからどう描くのかも、気になって仕方がありません。

〔野口実『図説 鎌倉北条氏』(戎光祥)、鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)を参照しています。〕


 鎌倉北条氏については、『逃げ上手の若君』の連載が開始された時に、『太平記』を題材として語っています。興味のある方はぜひ聞いてみてください(静止画・音声のみの動画です)。


 いつも記事を読んでくださっている皆さま、ありがとうございます。興味がございましたら、「逃げ若を撫でる会」においでください! 次回は8月9日(火)開催です。


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