【『逃げ上手の若君』全力応援!】(140)古典『太平記』で確認してみる! ①青野原の戦いの一番陣、二番陣、四番陣の勝敗 ②松山九郎と高木十郎、豪仙と豪鑒(時を超えて多くの人に伝えたい…)
「どこぞの神も胡散臭く笑っておろう」
『逃げ上手の若君』第140話のラストシーンは、負けてもどこか清々しい顔つきの小笠原貞宗が印象的です。
時行の絶体絶命の危機は、常に時行の傍らに控える亜也子と雫によって、どうやら想定内の出来事として事前に対策が練られ、回避されたといったところでしょうか。青野原の戦いを「土岐が顕家を狙う戦」だとする貞宗は、「決死で小笠原が踏みとどまる義理は無いわ」として、戦場をあとにします。ーー引き際の見極めも流石ですね。
「この「青野原の戦い」では 時行軍が他単独で敵軍を破ったこと記されている」
古典『太平記』において、二番陣の時行の相手は高重茂ですし、すでに本シリーズの第138回で紹介していますが、もう一度確認しておきたいと思います。
二番に、高大和守、三千余騎にて墨俣川を(渡る処に)、渡しも立てず、相模次郎時行、五千余騎にて乱れ合ひ、互ひに笠符をしるべにて、組んで落ち、(落ち)重なつて首を取る。半時ばかり戦うたるに、大和守、憑み切つたる兵三百余騎討たれにければ、東西にあらけ靡いて、山を便りに引き退く。
※笠符…敵味方を区別する布きれ。兜や鎧の袖につける。
※半時…約一時間。
※あらけ靡いて…ばらばらになって逃げて。
こちらも本シリーズの第138回で一部触れていますが、『太平記』では一番陣での戦いが次のように語られてます。
小笠原信濃守、芳賀清兵衛入道禅可、二千余騎にて、自貴の渡へ馳せ向かへば、奥州の伊達、信夫の者ども、三千余騎にて川を渡して奥州の伊達、信夫の者ども、三千余騎にて川を渡して、芳賀、小笠原、散々に懸け散らされて、残り少なに討たれにけり。
※小笠原信濃守…貞宗。
※自貴…食(じき)とも。羽鳥郡岐南町の旧地名。
※信夫…福島県の旧郡名。はじめ石背(いわせ)国。のち陸奥国の一部。今の福島市南部に当たる。
『逃げ上手の若君』では、第139話で「敵軍を右に偏らせ 空いた左翼に時行を狙う直接道路を作り出す」といって貞宗が渡河したところを、雫は「隣陣の伊達様と連絡を取ってた」ので「陣形は任せて!」と亜也子に急ぎ伝えていました。
まず、右翼に攻め込んできた敵兵たちを一番陣の伊達軍が迎え討ち、次いで、対岸に残る敵兵には「シイナ隊」が奇襲をかけ、小笠原の「後衛」を崩したという形で、伊達軍が川を渡ってきた小笠原軍を蹴散らしたというとらえ方なのですね。ーーう~ん、いつもながら見事な解釈!
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「く… 最強の武士への道は遠い」
落ち込む上杉憲顕ですが、弧次郎とのやり取り(「あんたの研究すげーと思うんだけど」以下、正直に告げる弧次郎と衝撃を受ける憲顕の対比が……)にも逆上するのではなく動揺し、しまいにはめげるというのが、武士らしくないのかもしれませんね。
なお、『太平記』での四番陣について、前回は伏せておいたラスト(勝敗)の部分を含め、おさらいしてみたいと思います。
四番に、上杉民部大輔、同じき宮内少輔、武蔵、上野の勢都合一万余騎を率して、青野原に打ち出でたり。新田徳寿丸、宇都宮の紀清両党、三万余騎にて相向かふ。両陣の旗の紋、皆知り知られし兵どもなれば、後の嘲りをや恥ぢたりけん、互ひに一引きも引かず、命を際に相戦ふ。毘嵐断えて大地忽ちに無間獄に堕ちて、水輪湧いて世界尽く有頂天に翻らんも、かくやと覚ゆるばかりなり。されども、大敵拉ぐに難ければ、上杉つひに打ち負けて、右往左往に落ちていく。
※上杉民部大輔…上杉憲顕。
※宮内少輔…憲顕の従兄弟・藤成か。
※毘嵐断えて大地忽ちに無間獄に堕ちて…世界を生成する大暴風である毘嵐婆風が吹かなくなって、大地が瞬時に無間地獄に堕ち。
※水輪湧いて世界尽く有頂天に翻らんも、かくや…、大地を支える水輪が沸き返って世界が天界の頂きに押し上げられる激動も、このようであろうか。
※拉ぐ…おしつぶす。つかみつぶす。勢いをくじく。
憲顕のメンタル回復は早そうな気がするのですが、長尾忠景の腕はどうなっちゃうのかが気になる私です(また「九十九型」でくっつけちゃたりするのかな……?)
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「…化けおった 豪傑に」
颯爽と新田の四番陣をあとにする弧次郎(ナレーションは「祢津小次郎」としています)。憧れの目で見つめる徳寿丸(義興)と新田の兵たち、そして畑時能のこの一言がすべてですね。畑は「新田四天王」の一人とされています。「豪傑」が認めたというわけです。
(……が、笑うところではないのに、もはや私には畑が眼鏡をはずしたムツゴロウさんにしか見えず。)
「「太平記」には 取るに足らない小勢力の… 超人的な豪傑の逸話が数多く残っている」
この説明のコマの背景には、四人の人物が描かれています。松井先生はこんな細部まで『太平記』を読み込んでいて、しかも、そうした人物たちにも思いを馳せているのだと思いました。
『逃げ上手の若君』のキャラクターとストーリーには、物語に残る彼らが彼らとして登場することはなくとも、そのスピリットが随所に輝いているのを感じます。
せっかくですので、数百年の時を超えて思いもよらず(?)メジャーな少年漫画誌にその名が登場した彼らについて、ここで紹介してみたいと思います(長くなるとは思いましたが、日本古典文学全集の現代語訳を引用させていただきました。名前だけで終わってしまうのは寂しいですし、そんな彼らに対して私のような人間ができることはこうしたことぐらいですので……)。
【 松山九郎と高木十郎 ~松山が力はただ高木が功にぞありけると、ほめぬ人はなかりけり。~ 】
(松山と高木は、八幡山にて官軍として足利方と戦った武士です。)
さて、城中にいる官軍船田入道の手勢に、高木十郎・松山九郎という名を知られた二人の武者がいた。高木は心は勇猛であったが力が足りず、松山は力は世に超えていたけれども、臆病であった。二人は一緒に第一の木戸口を敵に攻め破られ、それでも第二の木戸口で防戦していた。敵はすっかり逆茂木を取り除いて、城中へ押し入ろうとしていたが、松山はいつものとおりで、手足をがたがた震わせて、戦おうともしなかった。高木十郎は松山のこの様子を見て、眼を怒らせ、腰の刀に手をかけて言うことには、「敵が城の四方を取り囲んで、一人残らず討ちとろうと攻めて来ているんだぞ。もしここが破られたならば、主だった大将たちはもちろん、我々に至るまで、どこへ逃れることができるというのだ。だから、ここが最後だと思って戦わなければならないのに、貴公がとんでもなくおじけて見えなさるなんて、呆れたことだ。平生、百人力、二百人力あると自慢しておられたが、いつ使うためだったのか。こうなったら貴殿と刺しちがえて死のう」と怒って、本当に覚悟を決めた面持ちで言ったので、松山は高木の顔色を見て、目の前の高木との勝負を敵とのそれよりもいっそう恐ろしく思ったのであろうか、城中の様子を見て、「まあまあ落ち着きたまえ。全軍のためにも、自分個人にとっても一大事は今このときだから、命を惜しむべきではない。さあ一戦して敵に力を見せてくれよう」と言うや否や、傍らにあった五、六人がかりで持ち上げるような大石を軽々と持ち上げて、大勢集まっている敵軍の中へ、十四、五ばかり大きな山を崩すように投げたのである。寄せ手の数万の軍勢はこの大石に打たれて、将棋倒しをするように、そろって谷底へ転がり落ちたので、自分の太刀・長刀で貫かれて命を落したり、傷を負う者は幾千万とも知れなかった。そのため今夜すんでに攻め落されそうであったのに、八幡山の城は予想外に持ちこたえたので、松山が力を出したのもひとえに高木の功績によるものだと、高木を褒めない人はいなかった。〔第二十巻〕
【 豪仙と豪鑒 ~ 「ただ二人返し合へるを以て、三塔一の剛の者とは知るべし。」~】
(豪仙と豪鑒(かん)は、後醍醐天皇方として六波羅の幕府軍と戦った比叡山の僧兵です。)
この中に、叡山東塔の南谷にある善知坊に住む僧で、豪鑒・豪仙といって、叡山全体で名高い荒法師がいた。二人は味方の大勢に引きずられて、不本意ながら北白川をさして退却したのであったが、豪鑒は豪仙を呼び止めて、「合戦の常として、勝つときもあれば負けるときもある。勝敗は時の運によることだから、恥のようであって恥ではないのだ。そうはいっても、今日の合戦のざまは叡山の恥であり、天下の笑い草になるだろう。さあ、貴殿、引き返して戦い、討死し、二人の命を捨てて、叡山全体の恥をすすごう」と言った。豪仙は、「もちろんだ。もっとも望むところだ」と言って、二人は踏みとどまって、法勝寺の北の門前に立ち並んで、大音声に名乗りをあげた。「これほどまで浮き足立った大勢の中から、たった二人引き返して戦う姿を見れば、叡山一の剛の者と知れよう。我らの名前は定めて聞き及んでいよう。善知坊に住いする豪鑒・豪仙といって、叡山中に名を知られた者だ。我こそはと思う武者どもは、寄って来い。斬り結んで、他の者どもに見物させてやろう」と言うや否や、四尺あまりの大長刀を水車のように振りまわして、躍りかかり躍りかかりして、火花を散らして斬りまくった。二人を討ち取ろうと近づいていった武士たちの多くは、馬の足を長刀でなぎ払われ、兜の鉢を割られて、討たれてしまった。彼ら二人はこの場所で一時間ほど防戦したけれども、後に続く僧徒は一人もいなかった。敵勢が雨の降るように射た矢のために、二人とも十数か所の傷を受けたので、「今はもう思いも達した。さあ、冥土までともに行こう」と約束を交し、鎧を脱ぎ捨てて、肌脱ぎになり、腹十文字にかき切って、同じ所で倒れたのである。この様子を見た武士たちは、「ああ、日本一の剛の者たちよ」と、その死を惜しまぬ者はいなかった。叡山方は前陣が敗れて引き返したので、後陣の大軍勢は戦場さえ見ずに、途中から叡山へ引き返した。豪鑒・豪仙の、たった二人のふるまいによって、叡山方はそれでも山門の名をあげたのであった。〔第八巻〕
〔『太平記』(岩波文庫)、日本古典文学全集『太平記』(小学館)を参照しています。〕