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『徒然草』―名言ハイライト2 第五十九段―(2013年8月5日)
大事を思ひ立たむ人は、避(さ)りがたく、心にかからむことの本意(ほい)を遂げずしてさながら捨つべきなり。
仏道修行といふ一大事を決意する人は、棄てにくく、常に心にかかる目的を達しようなどとしないで、思ひきつてそのまま捨てなくてはならないのだ。(今泉忠義先生訳)
「さながら」とは、「そのまま」とか「すべて」「全部」「残らず」といった意味です。
私たちにはもう、まるでわけのわからないこととなってしまいましたが、仏道修行、つまりは出家するというのは、現世のあらゆる価値を超えた「大事」だったのです。西行は出家の際にすがりつく娘を蹴落として家を出たという逸話が有名ですし、ある男は川に落ちた父親を助けようと手をつかんだ瞬間に〝今こそ出家のチャンス〟と気づき、そのまま手を離して出家を遂げたという話も大学の時に聞いたことがあります。
現代に当時の出家に比すような「大事」があるのかと言ってしまえばそれまでですが、皆さんはどうですか。「大事」のために「さながら」捨てることができますか。
「しばし、この事はてて」
「おなじくはかのこと沙汰しおきて」
「しかしかの事、人の嘲やあらむ、行末難なくしたためまうけて」
「年来(としごろ)もあればこそあれ、そのこと待たむ、程あらじ。物さわがしからぬやうに」
〝ちょっと待って、これが終わってから〟
〝どうせ出家するならあれが決着ついてから〟
〝あれとかこれとか、人に馬鹿にされるかも…先々憂いのないように前もって片付けておいてから〟
〝確かに長く考えていたことではあるけれども、しかるべき時を待ってみよう。そう時間もかからないだろう…あわてないあわてない〟
これ、何だかわかりますよね。――第八十五段に続き、またしても〝言い訳〟です。
「ことの尽くる限もなく、思ひ立つ日もあるべからず。」――こうして、たいていの人はその一生を終えてしまうと兼好は述べます。
近き火などに逃ぐる人は、しばしとやいふ。身を助けむとすれば、恥をも顧みず、財(たから)をも捨ててのがれさるぞかし。命は人を待つものかは。
もし、近所で火事が起きて、火がすぐそこまで迫ってきたらどうしますか。向かって来る火に対して「ちょっと待ってくれ!」と言うでしょうか。――まさか、言わないですよね。逃げます。恥も捨て、金銭や大事だと思うものも置いて逃げますよね。命は、死は、人の事情などお構いなしです。
無常の来(きた)ることは、水火の攻むるよりも速かに、のがれがたきものを、その時、老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨てがたしとてすてざらむや。
「無常」が迫れば、自分の意志には関係なく「さながら」捨てるしかないのです。
「無常」とは「死」です。だから、水や火よりももっとすばやく、逃れられないものであって、その時には、老いた親や幼い子、君主の恩や人の情といった、平常時には最も大事とされるものですら、捨てられないからといって捨てないわけにはいかない、捨てるしかないのです。
出家をする、仏道に入るというのは、我々が次の瞬間にはどうなるのかもわからない「無常」の中で、「死」が今この瞬間にも訪れるかもしれない覚悟、つまり、「死」が訪れれば世の全てのものとは別れる運命であるということを受け入れることであったのです。中世の人々の置かれた状況は、現在とは違います。飢え、病、貧しさゆえの犯罪、戦――そのような危機が日常のものとして、自らのすぐ隣に息を潜めていた時代であったと想像します。
ゆえに、「大事」を思い立つ際には「無常」の瞬間と同じ状態、つまり、「さながら」捨てることが求められる。――その強い思いに兼好は駆られ、この段落を執筆したのかもしれません。
しかしながら、現代人の置かれている状況は、本当に中世の人々とは違うのでしょうか。
日本では今、自然災害の脅威、巨大化した科学技術を制御できないという不安、長引く経済不況による閉塞感といった数々の危機が顕在化し、精神的にぎりぎりの状態に置かれている人が少なくないと思います。
現代人には「無常」がまるでわからなくなってしまったというのはきっと嘘です。忘れている記憶を日本人は掘り起こしていくべきだと私は考えます。
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