【『逃げ上手の若君』全力応援!】(183)「新生諏訪家」の当主は父の見立て通りの才覚と祖父譲りの個性&頭脳で参戦! 室町幕府内では信濃守護・小笠原氏と対等だったとされる村上氏に心変わりする市河助房に見る信濃国事情とは……!?
「お前のためじゃない 父上とお祖父上の遺志を継ぐためです」
時行の諏訪頼継に対する「ふにふに」攻撃がかわいらしすぎです。つっけんどんに頬を押し戻す頼継ですが、まんざらでもないのかもしれませんね(悪ガキ頼継も好きですが、ツンデレ頼継も悪くないかもです……)。
「父祖の忠節忘れ難く 新生諏訪家は北条に同心する!」
本シリーズの第181回でも紹介した、鈴木由美先生の『中先代の乱』に掲載されている「守谷貞実手記」の写真(を自力で判読した限り)には、「大祝頼継父祖思慕難忘(=当主の頼継は父や祖父を慕う思いを忘れ去ることはできず)」に、大徳王寺城の戦いに「同心」した旨が記されています。
頼継自身、「ですが諏訪は立て直し中」という中で「戦況の決定打にはなれませんよ」と時行に告げていることに、作品中では描かれてはいませんが、父と祖父(……のみならず、おそらく代々の当主)が抱いた主君・北条氏への恩義と、諏訪当主としての責任との狭間で悩んだ末の、頼継の強い意志と決断とが想像されます。
「人としての才覚に優れた自慢の子」であると、諏訪時継が別れの際に伝えた言葉を時行は思い出していますが、まさにその通りでしたね。時継は影の薄い存在でしたし、頼継に対して親としてはやや態度が甘かったですのが、父・頼重同様に人を見る目は確かだと思いました。そして、「父と 祖父と 僕の魂は常に一つ!」の感動的なセリフの場面での頼重の顔が、例のインチキ顔という……妹は〝なぜあの顔?〟と笑っていましたが、「五年の不戦の誓約」の解釈の裏をかいて「きゃーきゃきゃきゃ」と笑う頼継の頭脳は、祖父譲りということだと思います。
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さて、今回はまさに南北朝時代とは、個々の武将たちにとってどのようなことを強いた時代であったかがわかる内容であることを感じました。市河の「カブトムシ」発言は、やはり戦を抜ける口実だったのですね。
小笠原貞宗にぞっこんと思われていた(?)市河助房は、いつ村上信貞に乗り換えたの!?という思いでモヤモヤしてしまった私ですが、櫻井彦(よしお)氏の『信濃國の南北朝内乱 悪党と八〇年のカオス』から、少し長くはなりますが、頼継の大祝復帰頃の信濃の様子について述べている部分を引用したいと思います。
京都を中心にめまぐるしく攻守が交替するなか、信濃国内でも後醍醐方と足利方の攻防戦が演じられていた。足利方に属した小笠原貞宗が、武田政義らとともに建武三年(一三三六)元日、諏訪神社に攻めよせて、足利方戦勝のため、大祝職を藤沢政頼から諏訪頼継に交替させる。政頼は諏訪氏庶流の人物であったが、 中先代の乱に際しては新政権方に与し、北条時行を擁立して敗れた諏訪頼重・時継父子の自害後、この大祝職に就いていた。新政権の影響力が急速に縮小されていくなかで、もともと諏訪社内に強力な基盤をもたなかった藤沢政頼の立場が悪化していったのである。
これに対して、小笠原貞宗たちは時継の子息として正当性をもち、諏訪郡原郷(原村)に匿われていた頼継を同職に就けたのである。諏訪氏は新政権打倒失敗して大祝職を失ったものの、足利氏の離脱によって新政権の体制が不安定化し、同職を奪還することになったわけである。足利氏や貞宗には恩義がある ともいえるが、諏訪氏はこのあと信濃国内で、足利方に対抗する南朝方の中心的な存在となっていく。
足利方の村上信貞は、市河氏を率いて、建武三年正月十三日と十七日に埴科郡英多荘(長野市)の清滝城を攻撃し、二十三日には牧城(長野市あるいは高山村)を攻めている。清滝城の戦いの詳細は不明だが、牧城には高坂心覚たちが立て籠り、市河氏のほか高梨時綱や犬甘氏・毛見氏・殖野氏も村上氏に従ったらしい。(中略)心覚の子高宗は、後醍醐皇子宗良親王の重要な支援者の一人であった。また村上勢に属した毛見氏は、高井郡(木島平村)を本拠とする一族であったと思われるが、殖野氏の詳細はわからない。
犬甘氏については、翌十五日、中先代の乱に敗れて逃走していた北条泰家が 筑摩郡で挙兵した際に従った。深志介知光が同族ではなかったか、との推測があることは先に述べた通りである。なお、二月十五日の段階で、西国では足利方が京都周辺での戦いに敗れて西走するといった状況にあり、混乱した情勢のなかで泰家は起死回生を狙ったものと思われる。しかし、彼らは当時信濃国を実質的に管轄していた、足利方の小笠原氏などに鎮圧されることになる。
村上信貞の『逃げ上手の若君』での初登場(回想シーン)は第101話(第12巻)です。そんな前から、市河の気持ちは貞宗から離れていたと思うと、ちょっと悲しい(……もしかして、貞宗が自分の気持ちに気づいてくれなかったから。ですか!?)。
信濃の小笠原氏の研究をされている花岡康隆氏の案内で諏訪を探訪するという、南北朝時代を楽しむ会のイベントに参加した際、花岡氏が〝市河助房が(諏訪)神党であることを名乗っている文書があるので、いずれ市河は裏切るんじゃないかと思っています〟と非公式(?)な発言をされていたことがあります。助房が、親族の葬儀を理由に出兵には応じられないとした文書も見たことがあります。助房のみならず、古典『太平記』では新田義貞が仮病を使って千早城攻めから離脱したという有名な話もありますし、所領を持つ武将たちにとって、動乱の時代はまず自分の所領は自分で守るというのが最優先事項であったのは確かでしょう。
なんとなく節操なく思われてしまう助房ですが、市河氏の文書は多数残されているゆえにそのような印象を与えるということはないでしょうか。現代までしっかりと多くの文書が残されていることとその変遷をつぶさにたどれるということは、まさに市河氏の〝生き延び上手〟の証ではないかと私は考えます(とはいえ、「カブトムシ」を理由にする助房も、それで許してしまう貞宗も、やはりどこかズレている気が……)。
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さて、第183話の最後では土岐頼遠の再登場に逃若党が愕然として逃げを決める様子、それに続いて、貞宗の苦悩が描かれています。『信濃国の南北朝動乱 悪党と八〇年のカオス』では、「建武政権期以降、信濃国内における軍事指導者が複数名指名されたのは、小笠原氏の国内基盤が弱かったために、指導力を十分に発揮できなかったことが原因だったと考えられる」ことから、「尊氏としては、貞宗の脆弱さを補う存在として信貞に期待したということだろう」とあります。
「小笠原氏と村上氏はともに源氏系であった」ものの、信濃に住まうようになったのは村上氏の方が早く、「信濃国における在地性という観点では村上氏の方が強かったといってよいであろう」とあります(先の花岡氏も、講演会の中で確か〝(信濃の人たちから見たら、甲斐から来た)よそ者〟という表現をされていました)。「守護職補任に関して小笠原氏が優勢」であったのは、鎌倉幕府での立場が小笠原氏の方が有利であったことに拠るのではないかとされていますが、「在地社会においては、国内の由緒が薄弱でありながら、幕府の権威をまとった小笠原氏の存在は疎まれたと思われ、以後の信濃の国内情勢に大きく影響していくことになる。」と記されています。
『逃げ上手の若君』では、貞宗の置かれたそうした時代的な背景を、時行の心の師匠となっていく過程とうまく重ね合わせているなあと思いました。初登場時は嫌いなキャラクターでしたが、回を追うごとにイケオジ化し(瘴奸とのかかわりも思い出すとじ~んときます……)、そんな貞宗が自身の老いを感じる今、時行に何を語ろうとしているのでしょうか。ーー貞宗の言葉を、一言たりとも聞き逃すことなどできない私がいます。
人間の面白さは、〝永遠〟とか〝不変〟とかいう完成形がなく、とどまることなく変化していくことなのかもしれません(それは、心変わりした市河も同様です)。
〔鈴木由美『中先代の乱』(中公新書)、櫻井彦『信濃國の南北朝内乱 悪党と八〇年のカオス』(吉川弘文館)を参照しています。〕