【『逃げ上手の若君』全力応援!】(121‐1) 結城宗広の「忠臣」と言うには妙なテンションに合点! …過酷な時代と父の力からは逃れがたきも、少年たちはそれぞれの道を歩む
「なんと! それはおそらく我が末子三十郎では!」
『逃げ上手の若君』第121話でとうとう明かされた衝撃の事実ーー保科党の門番さんが、なんと結城宗広の息子だったとは! 松井先生は、一体いつからこの設定を構想していたの!?と、驚きを隠せません。
ちなみに、武士と言えば源氏と平氏ですが、藤原秀郷流がもう一つの名門とされているそうです。そして、結城氏はその藤原秀郷流であり、宗広は惣領家から独立を果たそうとしていたなかなかの野心家のようです。
結城氏(ゆうきし)
中世、下総国の豪族。藤原秀郷の後裔で、下野国の豪族小山(おやま)政光の三男朝光が、源頼朝から下総国結城(茨城県結城市)を与えられ、ここを本領としたのに始まる。〔国史大辞典〕
※藤原秀郷(ふじわらのひでさと)…平安中期の下野(しもつけ)の豪族。左大臣魚名の子孫といわれる。俵(田原)藤太とも。下野掾・押領使。940年(天慶3)平将門の乱を平らげ、功によって下野守。弓術に秀で、三上山の百足(むかで)退治などの伝説が多い。生没年未詳。
結城宗広(ゆうきむねひろ)
? - 一三三八
鎌倉・南北朝時代の武将。通称孫七、上野介。剃髪して道忠と称した。陸奥国白河荘南方を分与されて白河結城氏の祖となった祐広の子。母は熱田大宮司範広の女。北条氏の命をうけて南奥州方面における年貢催促の使節をつとめるなど、得宗権力と接近することによって、下総の惣領家からの自立と勢力の拡張をはかった。しかし、元弘三年(一三三三)護良親王・後醍醐天皇から相ついで討幕の命令をうけ、五月十八日、鎌倉で弟の片見祐義らとともに新田義貞の軍に加わって幕府を攻略。子息親光の活躍もあずかって天皇の信任を得た。同年八月、陸奥守に任じられた北畠顕家は下向に先立って陸奥国諸郡奉行のことを宗広に委任している。翌建武元年(一三三四)正月には奥州将軍府の式評定衆に任じ、また下総結城氏にかわって結城一族の惣領とされ、さらに翌年にかけて奥州各地に多くの恩賞地を与えられた。同三年正月、顕家に従って上洛し、三月三日、天皇に拝謁して太刀を与えられている。足利尊氏の京都奪還、天皇の吉野潜行ののち、延元二年(北朝建武四、一三三七)八月、再び顕家に従って侍大将として西上の途につき、十二月、鎌倉を攻略。〔国史大辞典〕
上記で引用した『国史大辞典』の宗広の項は、ネタバレがないように、『逃げ上手の若君』ではこれからの部分については割愛しました。
「「太平記」で結城宗広は終始忠臣として書かれる」と松井先生解説にある通りで、割愛した以降の宗広の熱血ぶりがまた面白いのです。ただ、『太平記』の語り手が宗広とセットにした地蔵菩薩の功徳話により私は見落としていたのですが、宗広が現代で言うところの「重度の快楽殺人者」であるからこその、「忠臣」と言うには妙なテンションの謎が解けた気がするのです。
北畠顕家は「結城は癖以外は温厚で老練な忠義の将だ」と時行に話していますが、若い顕家に比して宗広が「老練」というのは確かかも知れませんね……。
宗広の末子である保科党の門番さんが「三十郎」であることにもまた、松井先生のキャラ作りの深さを感じます。ーー宗広は、自分の「趣味」がわかる子どもが欲しくて、側室をたくさん持ってがんばったんだなと思いました。二人で楽しむ秘密の部屋の道具と父子の様子が生々しくて、私はそれだけで「ドン引き」でしたが、「まさか信濃まで流れていたとは(以下省略)」と言って涙する宗広は、やっぱり親なんだなと、うっかりながらちょっとだけしんみりしてしまいました。
かつての少年・三十郎さんがいろいろな意味で父親からの自立を遂げたように、時行、顕家、徳寿丸(義興)、家長もまた、父からのDNAを受け継ぎ(義興に「?」が遺伝しているのが(笑))、その生き様に大いに影響を受けながらも、それぞれの道を進んでいることを、「少年時代1337」のタイトルから感じ取りました。
顕家の父である北畠親房は、なかなか強烈な人です。時行は、父・高時の仇である新田義貞の子・義興との「共闘」に戸惑いを見せました。その義興の父・新田義貞と家長の父・斯波高経には因縁があります(『逃げ上手の若君』ではまだ語られていませんが…)。
時行には、「尊氏を倒すため」という明確な意志があるから、顕家の「意地悪」にも、南部師行の人を見下したような態度にも、「なんでもない」と弧次郎をなだめることができるのですが、自由な現代からするとその決意には胸が痛みます。
しかしながら、「なんと当たり前に幼子が戦場にいる時代かと」と、義良親王との対面で溜息をついた時行の姿とそのすぐあとの顕家の物言いが、時行を取り巻く世界の全てなのです。ーー私たち読者は、後の天皇となる「別格の幼子」と「汝や新田は下賤な武士」とを隔てる身分制度と、幼子すら戦場に立つ、しかもかつて家臣だった者や旧敵や親の仇とも組まねばならないのだという、自力救済時代の「当たり前」に気づかされるのです。
『逃げ上手の若君』の登場人物は皆、少年もオッサンも変態も、ブレない自分の軸を持っているのが魅力です(三十郎さんも、それが良いか悪いかの評価は別にしても、キャラとしての軸があるから人気なのですよね!?)。
創作作品上の中世日本とはいえ、不自由さと過酷な現実の中で軸を持つことができる彼らに私たち読者が憧れるというのは、自由さの中で軸を失った現代人という事実があるからなのかもしれません。
〔参考とした辞書・事典類は記事の中で示しています。〕