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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(188)「一夫一婦」で永遠の愛を誓うなんて幻想に過ぎないのか?……「平等のままで」魅摩・雫・亜也子の「三人全員正室に」問題は現代のパートナーシップのあり方に一石を投じている!?
南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2025年2月2日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕
「そこまで人の気持ちがわからないと 将来尊氏になっちゃいますよ」
「はっきり諫めとく」と宣言しての弧次郎のド直球な一言に、時行気絶……。
さすが、側近の郎党である彼ならではの、主君を知りすぎるがゆえの的確な諌言に笑い止まらずでした(尊氏化している若の絵面もヤバすぎ)。
でも、時行にも「……最近は薄々わかってはいたつもりだ」と、魅摩・雫・亜也子の三人ともに時行を強く慕っているという自覚はあったのですね。足利尊氏の意味不明な「人の気持ちがわからない」のとはちょっと違う気もします。しかも時行は、最も家柄の良い魅摩を正妻とする場合、残りの二人が笑顔で刃をザクザクさせる図まで脳内に描けているのですから、問題を先延ばしにしていただけということだったというのが真相なのでしょう。
正室と側室との感情的な問題については、本シリーズ内ですでに記しています。
そうだとすれば、弧次郎の諌言も時行に行動を促すためのものだったとも考えられます。「逃げ上手」で常識にとらわれることのない時行ですが、こうした問題についてはまったくもって常識的です。しかしながら、時行の常識とあえて核心に触れないという思いやりも、恋する乙女たちにとっては、尊氏の無神経さと変わらないほどの辛い仕打ちに違いありません……。
弧次郎(の他、時行との恋愛関係とは無関係な郎党たち)の「平等のままで」「三人全員正室に」という提案に対して、「雫が聞けば未来じゃどうだの言いそうだけど」と補足される弧次郎のセリフは、現代の少年漫画におけるコンプラ配慮なのでしょう(頼重が雫に能力を譲り渡した理由はコレか!?)。……ですが、弧次郎の言う「今」であるところの南北朝時代には、地位と経済力があってそれが可能である男性にとって、複数の夫人がいるというのは当たり前でした。いや、南北朝時代どころか、人類史上、当事者同士の思いとは別にそうする必要があったというのが正しいのかもしれません。
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「現代では当たり前に美徳とされる一夫一婦だが この時代でも果たしてそうだろうか」
「一人だけを愛する事は時として 一族郎党を破滅に導く危険行為なのだ」
『逃げ上手の若君』の中では、足利直義の正室である渋川頼子と魅摩が、よくよく相手への思いとは別の、女性としての自身の役割についての発言をしています。
「ごめんなさい直義様 私に子ができないばかりに養子をお取りに」「側室を持っていただいても構わないのに」
「別に私は側室でいい」「このままじゃマジで若ちゃんの血筋が絶えちゃうよ?」
これは、相手が自分へと向ける思いに偽りがないことと、自分の相手への思いもまた揺らぎがない自信があるとともに、子を産めるというのは女だけの役割であるという事実を認識できる、理性的な女性ならではの発言ではあるかもしれません。
現代日本でも、私の父母の子どもの頃くらいまでは、衛生や栄養の問題で亡くなってしまう子どもは少なくなかったという事実があります。中世であれば、子どもが事故や事件に巻き込まれることは今以上にあったはずです。さらには、感染症の問題があります。同じ女性の子どもたちの遺伝子が特定の感染症に弱い場合、多くの子があったとしてもすべて死んでしまう可能性が高いです。それに対して、様々な女性の遺伝子があれば、猛威を振るう感染症に耐性のある遺伝子を持っていて、生き残る可能性を持つ子供の比率も高くなります。
少子化というのは、このような脅威にさらされることなく子育てができる環境を持つ社会だからこそできることで、多くの夫人を持って多くの子があるというのは、そうでない社会におけるリスク管理の一環だったのです。
「正室との関係が強すぎたために思うように子が残せず 子孫の没落を招いた人は多い」
古典『太平記』には、直義が「他犯戒を持つて候ふ間、俗人にわれ程禁戒を犯さぬ者なし」と本人が自負しているなどと評価を受けている記述があります。
※他犯戒…姦通など邪淫の戒め。
『逃げ上手の若君』では、頼子の弟である、中先代の乱で戦死した義季との「約束」を固く守っているという設定ではありますが、要するに〝正室一筋で、普通の男たち俺とは違う〟という、少しばかり思い上りがあるというのです(実際は浮気しているとする本もあります)。
「正室との関係が強すぎた」という例として取り上げられている人物のうち、直義のように男性側が主たる原因で正室との関係を強く持っていたのは、藤原頼通のようです(昨年の大河ドラマ『光る君へ』の中でもエピソードが織り込まれていました)。
赤染衛門の『栄花物語』の中で、頼通は正室の隆姫女王への愛が深すぎで、父・道長から三条天皇の娘である禔子内親王を降嫁の話があった際も、涙を浮かべて嫌がったとあります。それを見た道長は、「男は妻は一人のみやは持たる、痴のさまや」と叱り飛ばします。〝妻が一人だけなんていうのはバカな男のすることだぞ!〟と一喝し、いまだ二人の間に子が無いことを責めたので、頼通は立ち上がって父の言うことを受け入れたとあります。実際、頼通は正室との間の子には恵まれず、道長の築いた栄華も頼通の代以降衰えたという事実があります。
子どもがいない妻は、夫の家の中でまったくのアウェイになってしまうので、夫がそうならないように直義や頼通のように、正室の立場を重んじて大事にしてくれるのはありがたいですが、側室を取ってもらえないのであれば、それはそれで肩身は狭いのではないかなど考えてもしまいます。
一方、女性の側が持つ夫への独占欲や他の女性に対する嫉妬心による問題は、容易に想像されるでしょう。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』では、夫・頼朝が寵愛して子までなした亀の前に対する政子の強烈な報復をコミカルに描いていましたが、源頼朝と北条政子の話はあまりにも有名なので、ここでは省略します。
私は世界史はあまり得意でなかったので、「弘治帝」のことはよくわからなかったのですが、弘治帝の父である成化帝の寵妃・万貴妃が〝問題の人〟なのかなと思いました。彼女は成化帝の乳母で二十歳近く年上、出産年齢の限界をみたためか、王妃たちが妊娠するたびに堕胎を強要したというのです。しかし、弘治帝の母である淑妃紀氏の堕胎は失敗し、その子は密かに宦官に育てられて難を逃れ、皇帝となりました(中国ではいくつもTVドラマが制作されているようです……なるだろうなあ……)。
雫はもちろん万貴妃のように残虐ではありませんが、自分とはまるでタイプの違う魅摩への嫉妬心を抱え、また、執事による「正室を厳選」するという形で、時行の婚姻に対する消極的な妨害を行ってしまっているわけです(魅摩も亜也子もそれには気づいているのかのしれませんが、結果としてはそうなることで三人の利害は一致しているので、そこには触れていないと考えられます)。
彼女たちとは別の場所で示された解決策が「三人全員正室に」なのですが、シイナが重要なことを言っています。
「お三方とも家柄や富貴ではなく 旦那様のお人柄に魅かれておられます」
自分のことはあまりよくわかっていないシイナですが、年長の女性としての大変適切なアドバイスを時行に与えています。男女の関係だけではないと思いますが、大前提としてあるのは外的な条件ではなく、「人柄」といった内的なものであるということです。
その上で、理性的であることが重要であるということを私個人は考えています。他者の心は思うようにはできません。そして、恋愛をしてもその興奮が続く時間にも限りがあるとされています。だからといって、結婚という条件で相手を、あるいは、お互いを縛り付けるというのはまずもって違うという話になれば、男性にとっても女性にとっても必要なのは、お互いの関係性の独自性を尊重する、つまり、相手が他の人と結ぶ関係性とは異なる点を大事にする(関係性の中にあるお互いの役割に気づく)ことしかないのかななどと考えるのです。
現在、人生100年時代と言われる日本のみならず、世界各国において男女のパートナーシップのあり方が模索されています。時行と彼を慕う三人の女の子たちの問題は、南北朝時代を舞台にしながらも現代のこの問題に一石を投じているとは言えないでしょうか。
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(優秀であればあるほど、正室の子と差を付けられる側室の子の思いは
複雑であると思われます。そして、変化しない兄と変化する弟もまた……。)
さて、第188話では第133回で登場した足利直冬が、父・尊氏との対面を果たしましたのですが、時行臭がして「好かん」で拒絶されてしまいました。……あまりにひどい! そして、うろたえる直冬を見て「ククク」と笑う高兄弟もひどい! 〝いじめっ子のリアクションそのものだろうが!〟と突っ込んでしまいました。
※直冬については、先に引用した本シリーズの第133回の記事で触れている部分があります。
そんな直冬に対して直義が、「自信を持て 色々試したがお前の才は抜群だ」と伝えて元服させる場面には、こみあげるものがありました。意味もわからず父から激しく拒絶された直冬にとって、直冬が受け入れてくれたことがどれだけ嬉しく恩に感じたかと、その胸中を想像してしまいました。
直冬が優秀だったゆえに、尊氏の彼に対する処遇への不信感を抱いた者たちもあったことが、この後の足利家の争乱の一因になっているといった内容を、亀田俊和先生の『観応の擾乱』で見た覚えがあります。
『逃げ上手の若君』では、乱世を背景に、登場人物が歳を取り、経験を重ねるに従って変化していく姿が描かれていることを、何度かこのシリーズで述べています。
かつて、心の病の今川範満の心がもっと壊れてしまうようなことを吹き込んだり、斯波家長を目覚めさせたとはいえ仲間の死に平然としていたりするようなところが、どうにも好きになれない直義でしたが、彼もまた、己の失敗や人々とのかかわりを通じて、気づかないうちに変化を遂げているのだと感じています。
〔『太平記』(岩波文庫)を参照しています。〕