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お気に入りの評論――三浦雅士氏「考える身体(からだ)」①(2018年6月10日)

 先に私はメルマガを発行していたことをお知らせしましたが、廃刊にしたメルマガの中で、もう一度みなさんにも読んでほしいと思う情報をウェブリブログにて再録していました。
 教科書に採用されていた評論の解説もそのひとつでした。しかしながら、それらの閲覧数が他の記事をはるかに上回っていることが大変気になり、いくつか思い当たることがありました。

 noteにもそうした危険のある記事を収録するか、収録するにしても有料にしてしまうかで悩みましたが、結局そのまま掲載することに決めました。学校での宿題のためにこのページにたどりついた方は、どうか上で紹介した記事も合わせてお読みください。よろしくお願い申し上げます

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 発行人は古典が専攻ではありますが、評論についても古典と同じくらい(自分で読むのも、教えるのも)好きです。そこで、これまで扱ってきた評論の中で、気に入った作品を紹介し、考察してみたい――という考えがきっかけで始めました新コーナーの5回目。
 今回から、三浦雅士氏の「考える身体(からだ)」をとり上げます。

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 「身体を忘れたオリンピック」――読者が思わず反発しそうな小見出しで始まる本評論は、何度読んでも刺激的な内容です。
 
 「人間はおそらく、ダンスやスポーツの中で独自な共同性を培ってきたのだ。」

 ――この主題については、おそらく他の評論作品でも学んできた方が多いと思います(いずれとりあげたい評論の一つですが、野村雅一氏の「物まねが開く世界」など)。
 チンパンジーやゴリラは知能が高いといっても、一緒に踊ったり、演劇を見て共感したりすることはないのだと、以前、雑誌で読んだことがあります。現生人類が持つミラーニューロンという特殊な神経細胞が、人間の共同性や共感を促し、他の生物と人類とを隔てたというのも様々な論文等で目にしてきました。

 しかし、「近代オリンピックはその様相(=古代オリンピックもまた、人類だけが持つ身体の共同性に基づいて成立したであろうということ)を大きく変えたと言わねばならない」と、筆者の三浦雅士さんは言い放ちます。

 「古代オリンピック」と「近代オリンピック」を分け隔てるものは何か。
――「マス‐メディア」、つまりは、それを支える「テクノロジーの発達」です。

 「マス‐メディアは、その場にいない人間をも観客に変えてしまったのである。そしてその場にいない人間にとっては、オリンピックは、身体の問題である以上に、意識の問題、頭脳の問題であるほかなかった。すなわち、テクノロジーの発達は、オリンピックを身体の祭典から頭脳の祭典に変えてしまったのである。」

 筆者は、オリンピックから「身体の要素が全く払拭(ふっしょく)されるなどということはあり得ない」としながらも、「マス‐メディアによって報道されるのは、基本的に勝敗であり記録である。また、あくまでもそれにまつわるエピソードであり、物語である。映像もまた、その物語を補完すべく編集されると言っていい」とします。そう、だから「身体を忘れたオリンピック」なのです。
――「観客は身体によって感じる以上に、頭脳によって考えるようになってしまったのである。」

 また、「〇.〇一秒が争われる世界は、実際、身体と言うよりはむしろ頭脳に属すと言うべきだろう」として、「陸上競技や水泳といった競争種目」における「計測手段の発達」を指摘しています。――なぜ?
 ――「正確な計測は、時と場所を超えた抽象的な競技空間を作ってしまうからだ。今や、いつどこで走ろうとも、選手は、歴史上のあらゆる人間が走ったのと同じ場所を走っているのに等しいのである。」

 「理想的な競技場とはすなわち抽象的な競技空間にほかならない。そしてそれは、身体的と言うよりは頭脳的と言ったほうがいいような空間なのである。」

 ――うまい。かっこいい。三浦氏の文章は、現象を名づけた用語がクールです。「身体の祭典」と「頭脳の祭典」しかり、「抽象的な競技空間」しかり。また、「身体によって感じる以上に、頭脳によって考える」の対比もシンプルなのに、これで全てがわかるというくらいに的確です。

 私はこの文章を読むといつも、気候風土の違う各都市にポッカリとひとつ無機質な競技場が存在し、その上を同じシューズが走っている映像が浮かびます。
 さらに、箱根駅伝のことを考えます。
 記憶違いであったら申し訳ないのですが、いつの頃からか“非情の踏切ストップ”がなくなったような気がしています。かつては走者より電車が優先されていたような記憶があるのですが、最近は、電車の運行の方を競技に合わせているのだとアナウンサーが誇らしげに語っていたような気がします。
 さらに、初期の箱根駅伝は、山道を走り抜いたということの方が大事だったようで、松明を持って夜中も走り続けたとか、山中で双子が入れ替わったというような事件もあったと、箱根駅伝の歴史本で読んだことがあります。
 あの箱根の険しい山道ですら、マス‐メディアとその背後のテクノロジーが抽象化しているのかと思ったら、空寒さを覚えるのです。そう言われてみれば、好きだった箱根駅伝、毎年少しずつ違和感を覚えてもいます。

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 さて、これではもちろん終わりません。筆者の筆は、マス‐メディアの発達ゆえに引き出されたオリンピックの異なる側面を論じていくことになります。


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