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【『逃げ上手の若君』全力応援!】(178)香坂高宗と諏訪明神に導かれて逃若党は再び信濃へ! 再会した新明神様も大変な目に遭っていたことを『諏訪大明神絵詞』で確認してみた

 南北朝時代を楽しむ会の会員の間でも話題騒然の週刊少年ジャンプ新連載『逃げ上手の若君』ーー主人公が北条時行、メインキャラクターに諏訪頼重! 私は松井優征先生の慧眼(けいがん=物事をよく見抜くすぐれた眼力。鋭い洞察力。)に初回から度肝を抜かれました。
 鎌倉時代末期から南北朝時代というのは、これまでの支配体制や価値観が崩壊し、旧時代と新時代のせめぎあいの中で、人々がそれぞれに生き方の模索を生きながらにしていた時代だと思います。死をも恐れぬ潔さをよしとした武士が〝逃げる〟という選択をすることの意義とは……?
〔以下の本文は、2024年11月2日に某小説投稿サイトに投稿した作品です。〕


 「もちろん出世のためですぜ! 下っ端武士の一世一代の大博打だ!

 時は南北朝時代、香坂宗高のように「博打」を打つ人間は少なくなかったに違いないと納得させられた、『逃げ上手の若君』の第178話の始まりでした。ーー彼、正直ですよね。正直が最大の美徳であった中世において、自分を貫き「天竜川を急いで下った」という行動力あふれる香坂宗高のキャラクターが光ります。

 「野心も打算も笑顔もすべて屈託がない 信じるに足る若武者だ

 「野心」「打算」はどうしてもマイナスのイメージが伴うものとしてとらえられがちですが、時行は宗高が包み隠さず自分の思いを打ち明ける「屈託がない」正直者であることを確認し、「信じるに足る」と断じたのでしょう。

 ※ちなみに、天竜川を地図で確認すると、諏訪湖から発して高宗の本拠地の伊那を通過して、井伊谷のある現・浜松市まで一直線なのがわかります。

〔地図は、Wikipedia「天竜川」の項目内のものを拡大しました。〕

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 第178話は、懐かしい人たちとの再会に一喜一憂です。

 「すべての情報が信濃に行けと言っている

 先に私のこのシリーズの読者の方が〝雫の神力や魅摩の療養のためにも(時行の選択は)信濃ではないか〟というご意見をくださっていたのですが、まさにそのとおりでしたね! もちろん、それだけではない要素が「信濃」であることを示しており、史実ではよくわかっていない伊勢での漂流後の時行も、まさにそうだったのかなと思わせる展開でした。時行はこれを「諏訪明神のお導きかもしれない」としていますが、諏訪の地には、そう、強烈すぎる「」がいました!

 「きゃーきゃきゃきゃ時行ィィ! すっかりおちぶれてざまあ

 諏訪頼継、相変わらずの悪ガキ面で登場! ……ああ、変わっていないよ、この子と思いました。ただ、時行に対して、父・時継や祖父・頼重の死、そして自らが苦難を味わったことに対する恨み言については、一切口にしていないことに気づきます。その点では、父と祖父の意志を理解し、神党を率いる長として成長したんだなと思いました(少しは言おうかと思っていたけれども、時行の「あいも変わらず」の「善意の押し売り」ぶりに毒気を抜かれただけかもしれませんが、それでも大人になりました……)。
 中先代の後の諏訪氏が困難に陥ったことは想像に難くありません。美人巫女さんたちまでひどい目に遭っていますね……。

わざわざ額に「神」と入れ墨(?)しないとダメなところも「庶流に過ぎない男」っぽい……
(まず、後光が射していないですし、品がない(汗)。頼継のような強烈な個性もなさそう。)


 「諏訪の庶流に過ぎない男が諏訪大社の主に任命され 僕は追放 命を狙われ逃亡の日々

 『諏訪市史』によると、この頃の状況は以下のように記されています。

 (中先代の乱の終局)八月十九日には諏訪頼重・時継父子が鎌倉の大御堂(勝長寿院)で自害する。(中略)このため朝敵となった時継の子頼継は、神野に隠れ大祝職は、庶流の藤沢政頼に引継がれた。
 ※神野(こうや)…原山(はらやま)ともよばれ、八ヶ岳西山麓一帯の広い原野であった。(中略)古来、諏訪大社上社には、御狩押立みかりおしたて神事(五月二日)・御作田みさくだ御狩神事(六月二七日)・御射山みさやま御狩神事(七月二七日から)・秋尾あきお御狩神事(九月下旬)と四度の神事があり、いずれも原山の地に登って祭事が行われ、その祭場は神聖地として大切にされていた。〔日本歴史地名大系〕
 ※藤沢氏…中世、長野県上伊那地方を根拠とした武士の一族。諏訪大社上社諏訪氏の一族千野光親の子親貞が、現伊那市高遠町藤沢を領したことに始まるとされる。親貞の子清親は鎌倉幕府草創期より御家人として仕え、《吾妻鏡》には弓始等の射手としてたびたびみえる。
〔世界大百科事典〕

 藤沢氏は、早くから諏訪の惣領家とは別に独立して御家人として幕府に仕えていたようです。また、頼継の回想は、『諏訪大明神絵詞』に依るものだと思われます。この制作には、諏訪(小坂)円忠が関わっています。『諏訪市史』で確認してみます。

 承久の乱後上社大祝諏訪盛重が鎌倉に出仕していらい、鎌倉諏訪氏は繫栄して数家に分かれていたが、この中には武官系のみならず、文官系の司法官僚として活躍した者もいた。
 北条氏滅亡のさい、武官系の人たちは得宗被官として多く高時に殉じたが、文官系のなかにはかならずしもかならず同一行動をとらず、生きのびてその豊かな才能や深い経験を建武新政府に見出され、出仕する者もいた。その代表的人物が諏訪(小坂)円忠であり、かれが京都諏訪氏の始祖となる。円忠は新政府の雑訴決断所では三番東山道組を分担した。養父時光の影響をうけて司法文官としての才能を高く評価されたのであろう。しかしその後、中先代の乱で諏訪嫡流家が朝敵の汚名をうけたため、一族である円忠は雑訴決断所をやめ信濃に帰った。
(中略)
 鎌倉幕府における諏訪氏の勢力は、嫡流家が北条の被官となっていらい、一族あげて北条党を形成していたが、室町幕府に仕えた諏訪氏は、諏訪氏のなかの一支流であり、諏訪の嫡流家とは比較的関係のうすい立場において繁栄したにすぎない。けれども結束の固い諏訪一族のなかにあった円忠は、中先代の乱で浮沈の危機に立たされた嫡流家再興のために尊氏に愁訴したとみえ、頼継の大祝職復職に成功している。
 さらにまた、諏訪社の存在を全国に広く喧伝するうえで大きな役割りをはたしたあの『諏方大明神画詞』が、京都居住の円忠の手に成るように、かれの郷里である信濃の一宮諏訪社への思いには、熱いものがあった。京都諏訪氏の発展は、諏訪上社の歴史にとっても、見のがせない大事な事柄である。

 ※『諏方大明神画詞』…『諏訪大明神絵詞』のこと。

 このあたり、以前に諏訪を訪れた時に手に入れた『マンガで読む『諏訪大明神絵詞』』で見てみたいと思います(作者の五味夏希さんのイラストがとてもかわいらしく、頼継のイメージが変わることうけあいです(笑))。

 「いたか」
 「いや、まだ見つからぬ」
 追手の男たちの話し声が聞こえ、ガサガサとやぶに入る音がひびきます。頼継のそばにいる家来たちは五人。とても大勢の敵を防ぐことは出来ません。頼継は、ただひたすら、諏訪の神さまに祈りました。
 すると、山の中に霧が深く立ちこめて、闇夜のように何も見えなくなり、頼継の姿を隠してくれたのです。男たちは、あきらめて、山から下りていきました。
 それからも、不思議なことがたびたび起きました。米や豆など、たくさんの食べものを積んだ馬が迷い込んできたり、山中の川が、御渡おみわたりのように凍ったりすることがありました。
 (諏訪明神が、お守りくださっている)
 頼継は、手を合わせて、涙をながしました。
 一方、諏訪社では、頼継の代わりに、藤沢政頼という者が大祝の座につきました。けれど、本来、大祝となるべき血筋の者ではなかったため、神事のときに、不吉なことがたびたび起きていました。
 そうして、一、二年が過ぎた頃。ふたたび、大きな戦いが巻き起こりました。
 「今度の戦いに勝つためには、諏訪明神に祈るしかない」
 足利の軍勢は、軍神と呼ばれる諏訪の神さまの力を借りるため、諏訪に押し寄せてきました。その間、頼継は何も知らずに、山の中で暮らしていました。すると、突然、目の前に二人の男が現れて、頼継の前にひざまずいたのです。
 「大祝、頼継様ですね。私は信濃守小笠原貞宗と申します。諏訪社に戻り、大祝の座についていただきたい」
 こうして、小笠原貞宗たちは、山の中から頼継を救い出しました。そして、政頼を追い出し、頼継を大祝の座に戻しました。すると、その翌日、諏訪湖が凍り、みごとな御渡が見られたのです。その後、さまざまな神事が、無事に進められていきました。
 頼継を救い出し、大祝の座に戻したことで、諏訪の神さまの加護を受け、足利の軍は戦いに勝利しました。
 そして、大祝頼継はご神体として、ふたたび人々に敬われるようになったのです。

 『絵詞』は京都で幕府に仕えた円忠の作成したものであるゆえに、尊氏(足利)へのヨイショ感が否めませんが、貞宗が頼継を救い出している場面をわざわざ描いてもいるのですね。また、鎌倉時代を通じて諏訪氏の各家がいろいろな立場で活動をするようになっていたこと、そして、それぞれのあり方で諏訪大社とその信仰を守ろうとしていたことが伺えます。

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 さて、頼継との再会はにぎやかでしたが、伊豆で再会した泰家の額の「ウソ」や駿河四郎との別れにはしんみりしてしまいました。ひとたび離れてしまえば、その後は二度と会えなくなってしまうかもしれないと、一回一回の別れの場面でその思いを強く抱いた時代であったと思われます。よって、「またこの景色を見れるとは」という感慨や「諏訪明神のお導きかもしれない」として神秘的なつながりを感じることも、当時の人間にとってはごく自然な感覚だったのかもしれません。
 一方で、井伊谷に縛られそうになった時行を、後醍醐天皇の「型破りな綸旨」が断ち切ったというのは興味深いと思いました。さっそくの効力発揮です。「にせ綸旨」だと言って巨顔化して怒りを表す井伊に対して、「クス」と笑って受け流せる宗良親王の皇族らしいキャラがいいですね。井伊のようなやや横柄で単純なタイプと仲良しになれるのは、高貴な人特有の鈍感力ではないでしょうか。
 しかしまあ、「にせ綸旨」であれば、もっと常識的な内容にするはずですよね。宗良親王が臨時の話を後醍醐天皇から聞いていなかったとしても、「にせ綸旨」を作ろうとする人が作る発想の内容でない、まさに天皇だからこそ出せる「綸旨」でしかありえないだろうというところで決着がつくだろうことが想像されて、おもしろかったです。
 そして、次回はもう時行たちも小学生から中学生の年齢になるようですが、またインターミッション編もあるのか、いきなり成長した逃若党が登場なのか、そんなところもいつも松井先生のストーリー展開にはページを開くまで(開いてからも)ドキドキさせられっぱなしです。

〔諏訪市史編纂委員会『諏訪市史 上巻』、五味夏希『マンガで読む『諏訪大明神絵詞』』(ほおずき書籍株式会社)を参照しています。〕


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