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語彙を増やし、語彙力を高める、そしてその重要性④

 高1の定番教材の一つ「水の東西」でも有名な山崎正和氏が、4月20日付け読売新聞に寄稿された記事を興味深く読みました(「地球を読む」シリーズの「「論理国語」新設」)。その要点をまとめてみたいと思います。

 山崎氏は「論理国語」の問題点を指摘し、持論を展開しています。以下が、氏が示した4つの問題点です。

①近代文学の名作の軽視につながるという文学関係者の強い危惧がある(文学を研究する16の学会からの批判があった)。

→ただしこれについては、「文豪は知らなくても、正確に企業の報告書が書け、新聞記事が読める人材が増えれば、公教育の最低基準は満たされたと言える」ことを述べ、②以下のことが真の問題であるとしています。

②文科省が言葉の本質を正確に捉え、現場の教員に迷いない言語観と教育法を伝えてはいない。

③(「論理国語」という用語自体に)叙事的な言葉の正確な理解と表現を目指すという目的があり、大衆的な流行語(「カワイイ」「ヤバイ」など)の抒情的な述懐の撲滅を意図しているわけでもない。

④生徒の表現能力を過信して、自由な発表活動を教育の中心に据えようとしている。

→言語活動が「1対1の相手に向かい、肉体能力の届く範囲において直接的に発せられ」、「コミュニケーションの責任はもっぱら相手に」帰する、「乳幼児のむずかりや甘えと同程度にしか理解されていない」ことに対する警鐘です。
「人間は自由に感じたり、考えたりしたことを話すのではなく、まず言葉を与えられ、それによって物事を感じ、考える存在である」という前提が抜け落ちていると氏は考えています。

 山崎氏は、④が一番の問題とした上で、言語の本質を次のように定義することから問題を根本から捉えようとします。

 言葉は本質的に1対1の伝達ではなく、当の相手のほかに第三の傍聴者を予定している。直接に声の届く範囲を超えて、誰が立ち聴いても分かることを理念的な目標としている。かねて私はこれを「対話」に対して「鼎話(ていわ)」活動と呼んできたが、言いかえれば言葉はただの発信ではなく、話者と複数の相手との共同体を作る営みなのである。
 だからこそ、世間では相手の見えない書き言葉が重視され、書き言葉は無限定な相手に向けて、あたかも独り言のように書かれる。もし誤解が生じれば責任の大半は発信者が取ることになる。また、共同体の維持を目的とすればこそ、全体に通じる「正しい言葉」を使うという観念も生まれ、各個人もその言葉に従って感じたり考えたりし始めるのである。

 氏はこの原則を前提として、このあといくつかの提案を行っています。(つづく)

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 他者への共感や、自己の置かれた状況を理解し、受け入れ、歩を前に進めるための「ことば」の役割については、本ブログの4月5日の記事で私の考えを述べています。

 ※Youtubeで動画にもまとめています。参考にしていただければ幸いです。


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